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南インド・レポート 2009年3月20日〜3月29日

鷹巣孝一

南インド・タミルノナド州で活動する農村支援団体との出会い

親から子へ受け継がれつづける“人”の身分。
どんなに願っても、職業さえ変えることができないという悲しい現実。
それが、インド・ヒンドゥー教「カースト」の実態。

 

■1日目/日本とは違う国々

飛行機からの大地
インドに向かう飛行機から、フィリピンの大地が見えた。その大地は、日本でみたそれと同じで、ごつごつとして無機質で、人が住んでいると思われるところは白く色が変わっていた。

どこの国も、遥か上空から見れば同じ大地に見える。そこに住む人も建物も小さすぎて近くに寄らないと見ることはできない。 これから訪れるインドもそう。国や人が違っても、その大地はどこも同じだ。

インド到着
インド到着“第一歩”の印象は、騒々しさと、異臭とで、不慣れな日本 人にとっては苛酷なものと感じた。

南インドでも大きな空港である「チェンナイ空港」に到着して早々、私たちは何とも言えない独特の臭いに包まれた。日本の空港や、途中で寄ったシンガポールの空港とは違い、よく言えば生活感のある、悪く言えば清潔感が薄い・・・という雰囲気。手入れされていないであ ろう窓や床を見て、衛生レベルというか、清潔さに対する意識レベルと いうか、それとも、これが“当たり前の環境”なのだろうか・・・。

空港の外に出ると、車のクラクションの音でいっぱいだった。それらの車は空港の狭い駐車場を列を成して進んでいるのだが、特に大きな危険があるわけでも、渋滞でなかなか進まないわけでもないのに、なぜかクラクションをけたたましく鳴らしまくっていた。どうやらインドではクラクションを鳴らすことに抵抗がないらしい。これはインドにいる間中、どこに行っても同じだった。

インドに到着して早々、私たちは「ARP(Association for Rural Poor)研修センター」の人々に出迎えられた、彼らが用意してくれたバスで、ARP研修センターに向かう。バスは、中も外も決して「きれい」ではない。窓はうっすらと汚れており、私の目の前の席はひじ掛けが壊れていた。乗るのに支障はないが、日本ではまず考えられない。だが、インドに詳しい他の参加者の話では「このバスは窓があるからインドでは良いバスだ。普通は窓がなくて格子がはまっている」という。

また、走り出してからはものすごく揺れた。そして、窓の外からは強烈な排気ガスの臭いが入ってきた。時には、排気ガスに混じって腐乱臭も入ってくる。後から分かったが、これは路上に溜まった生ゴミから発せられているものだ。慣れないうちは、これらの臭いで気分が悪くなることもあった。だが、これも他の地域(特にデリー)に比べたら良い方らしい。

道路を走るほかの車は、車線を半分無視して好きなところを走っていた。そして、前にいる車に対して、「自分はここにいる」と主張するだけのためにクラクションを鳴らしまくり、追い抜いていく。ウインカー代わりにクラクションを使い、ウインカーがカチカチ鳴るのと同じだけクラクションも鳴らしているようだ。

ARP(Association for Rural Poor)研修センター到着
研修センターに着くと、大勢の子供たちが出迎えてくれた。恥ずかしそうに「Good morning. Nice to meet you!」と一人ひとり挨拶をしてくれた。どうやらそうやって挨拶するように教えられたようだ。夜中なのに「morning」とは、たぶん講師が間違えているのだろう。いや、AM 1:00だからmorningでよいのだろうか?子供たちに“微笑ましさ”さえ、感じられる。

全員が挨拶を終えると、私たちはそれぞれ部屋に通され、床についた。インドでも、子供たちの笑顔や、ベッドの形、そして夜空の星は同じだった。

■2日目/インドでの始めの一日、ASPにて

朝の風景
ARP研修センターでの朝は、穏やかだった。子供たちは朝早くから起きて、建物の入り口になにやら模様を書いている。インドの魔除けのようだ。手馴れた様子でチョークを器用に扱い、狂いのない綺麗な模様を易々と書き上げる。まるで、コンピューターで描いたように正確だった。

子供たちは恥ずかしがりながらも、私たちとお喋りがしたそうだった。試しにカメラを向けてみると、余計に恥ずかしそうにしながらも、すごく嬉しそうな笑顔を浮かべる。実際に撮ってみると、飛ぶように近寄ってきて、すぐさま写真写りチェック。カメラの中の自分をみて、またさらに歓喜していた。この後、撮って撮ってとせがむ子供たちに揉みくちゃにされたのは言うまでもない。

ヒンドゥーから脱して、キリスト教へ その後、子供たちは食事の前に朝の礼拝をした。ここ「ARP」はキリスト教を信仰している。通常、インドではほとんどがヒンドゥー教なのだが、彼らはあえてキリスト教に改宗した。 それはすべて、ヒンドゥー教の差別から逃れるためだ。ヒンドゥー教には「カースト」という身分制度がある。カーストには3000、4000もの階級があり、それぞれに職業と上下関係が決められ、死ぬまで変わることがない。どんなに願っても、自分の職業を変えることができないのだ。しかも、結婚相手も同じカーストでなければならない。下位カーストの者には、これを苦に自殺する者も少なくないという。これが【カースト】の中で暮らす人々の現実なのだろうか・・・。

ARPの彼らは、このカーストから逃れるために、ヒンドゥー教を捨ててキリスト教に改宗した。そして自らを「カーストに縛られない者」=「ダリットdalit」と名乗っている。

子供たちが、そんな自分たちの境遇を知っているのかいないのか分からなかったが、いずれは知ることになるだろう。その時、彼らはきっと、社会と戦うことになるに違いない。

やさしい食事
食事は特に驚くことも、辛さに苦しむこともなく、無事に済んだ。どうやら、ARPの方々の配慮で、日本人が食べやすいものを揃えてくれたようだ。面白い体験ができず少し残念だったが、辛い物を食べて胃腸を壊すよりは良かったかもしれない。

●ARP(Association for Rural Poor)とは
20くらいの農村を対象に活動している「農村貧困者のための協会」。「dalit」という、カーストから逃れてキリスト教になった人たちが中心で、各農村の牧師さんたちが協力してかつどうを 行っている。ARPの本部には、子どもの教育施設(小さな学校のような)、裁縫教室があります。

 

 

インドに根付くカーストによる格差と古くからの風習に潜む問題

どんな風習も、根付いてしまえば「常識」となる。
それは現代社会において、どこまで道徳的だろうか?
国の違いによるモラルのあり方を考えさせられた2日目。

 

■2日目/インドでのはじめの一日、ASPにて

日本人を歓迎する踊り
朝食の後は、歓迎会と勉強の時間だった。歓迎会では、少女たちが踊りを見せてくれた。先生(女性)と一緒に、円になって回りながら手を叩く。今日のために一生懸命に練習してくれたのだろう。彼女らの歓迎の気持ちが伝わってきてとても有り難い気持ちになり、しかし一方で「自分なんかに恩返しができるだろうか、せっかく歓迎の気持ちを貰っても何もできないかもしれない」と申し訳ない気持ちにもなった。
ただ、いずれにしても、このような交流の場があるだけでも、お互いにプラスになるのだろう。申し訳ない気持ちを払拭しきれないが、とりあえずそれで納得することにした。

勉強会(オリエンテーション)
障害者と、ジェンダーについての勉強会を行い、実際に問題を抱える女性を招いて話を聞く。しかし、私たちには彼女らの話す「タミル語」は読むことも聞くこともできないため、タミル語 → 英語 → 日本語、と通訳して話をした。

女性が何を語っているかは分からないが、彼女の真剣さ、熱心さが伝わってきた。日本人を前に臆しているわけでもなく、気取っているわけでもない。とにかく、訴えたいのだ。自分のおかれている現状をどうにかしたい、してほしい、と訴えているのだ。

ヒンドゥー教における「身体障害」とは、前世で罪を犯した罰だという。そのため、身体障害に対しては悪いイメージしかない。しかし、カーストという身分制度の中で「同じカーストとしか結婚できない。また、父母の言葉を理解できる人(方言も含め)でなければならない」という制約があるため、近親結婚が多くなり、障害児も決して少なくない。
政府や知識人は「近親結婚を避けよう」と呼びかけているが、数千年続いてきた教えがそれを簡単には許さない。いったい、どうすればよいのだろう。

ジェンダーの問題も深刻だ。インドには「ダウリー(結婚持参金)」という風習がある。これは「女性が嫁ぐとき、男性の家に多額のお金(もしくは財産)を渡さなければならない」というルールだ。この費用は非常に高く、家をつぶしかねない。逆に男性側から見れば、多額のお金がもらえるので非常に助かる。
そのために親は「女児が生まれると毒を盛って殺す」という話があるほど。それだけこの結婚持参金が負担なのだ。そのダウリーも今では法律で禁じられている。しかし、この風習も簡単にはなくなってくれない。
ダウリーを払って嫁いでも、「額が少ない」だの、「家を建て替えるからもっと寄越せ」だの、嫁いびりが絶えないという。そうこうしてこじれている間に、嫁の自殺や、嫁殺しが起こることも少なくないらしい。
時代の流れで少しずつなくなっていくのだろうが、問題は現実に「今」起こっている。今の時代に幸福になりたい彼女らは、訴えるしかないのだ。

古い考えの日本人ならば、諦めて運命に従う人が大半だろう。だが、彼ら彼女らは違う。不条理な社会と向き合い、結果が出る保障もないのに、分かってもらえるまで訴え続けようとしているのだ。とにかく今できることを最大限にやろうと、頑張っているのだ。

オリエンテーションの後は、明日から訪れるホームステイ先の人々との交流会があった。私のホームステイ先は、牧師のMr. デバネーサン(Devanesan)の家。私も彼も英語が得意ではなく少し不安になったが、彼は「No problem. No problem.」と穏やかに何度も言ってくれた。牧師だからか、とても優しい人だと感じた。彼は33歳だった。

彼らが編み出した啓蒙活動「民衆劇」
風習は根付き、「常識」となっている。そのため、その風習に問題があることに気づかない人も多い。彼らは、風習に問題が潜んでいることを必死に伝えようとしてきた。
その方法が「民衆劇」というものだ。民衆劇とは、簡単に言えば風刺だ。たとえば、仕事場で上司に叱られる男を演じる。その男が家に帰り、イライラして妻を殴打する姿を演じる。そうして問題提起をし、劇を見た村人たちに訴えかけるのだ。

民衆劇には、確立されたいくつもの工夫がある。

 

  • 多くの人に見てもらうため、村の中の屋外で演じる。
  • 始まる前に太鼓や音楽を奏で、人を集める。
  • 誰でも、どこでも演じられるよう工夫する。例えば、イスがなければ人がイス役になる。
  • 劇中で観客に呼びかけて議論するなど、「対話」の効果を使って効率よく啓蒙する。そのために、話の流れだけを作っておき、詳細な部分はアドリブでやる。
  • 同じ村で、何年もかけて繰り返し啓蒙する。

 

この民衆劇によって人々は徐々に問題を認知し、社会をよりよく変えてきている。

私たちも、現地の人々と一緒に民衆劇を作った。2グループに分かれ、私の班は「子供に暴力を振るってはいけない。子供の人権を守ろう」という趣旨の劇を考えた。

<ストーリー>
仕事で上司に叱責を受けた父が、家に帰り子供に暴力を振るう。しかし、妻が止めに入り、良心を取り戻す。時は流れ、暴力を受けた子供が父親になり、同じように子供に暴力を振るいそうになった。でも、彼は昔を思い出し、そんなことをしてはいけないと気づく。父のそんな気づき一つで、家族は平和になった。

2時間ほど練習をし、英語と日本語を混ぜて劇をやった。非常に楽しかった。
この日の夜は、民衆劇のほかに子供たちの踊り、日本人チームによる「ふるさと」の合唱、空手の披露などを行って交流をした。

■3日目/ホームステイ先の牧師 Mr.Devanesanとともに

ホームステイ先までの道のり
朝食を済ませ、荷物を準備して、私たちはホームステイ先へ向かった。みんなでジープに乗り込み、長い時間揺られていく。
まず途中で、ガソリンを入れた。ディーゼルだった。おそらく、安いからだろう。排気ガスがやけに臭うのはこのせいだろうか。ディーゼルは環境にも良くないということを、彼らも気づいていたのだろうか。気づいていてもいなくても、まだ車の少ないこの地ではディーゼルが選ばれるだろうが。

途中、いろんなものを見た。初日は夜だったために見られなかったが、明るいところで見ると本当にインドに来たんだと感じる。町は砂ぼこりや汚れがすごい。だが、慣れてきたのか私は不衛生だと感じなくなっていた。ヤギやウシ、イヌの3種は田舎ならどこにでもおり、非常によく見かけた。また、外資だろうか、野原の真ん中に、立派な工場がぽつんぽつんといくつかあった。

Mr. Devanesan(デバネーサン)と子供たち
ジープに揺られて1時間半。私はジープを降ろされた。そこには、昨日会ったMr. Devanesanがいた。牧師でもある彼の家が私のホームステイ先だ。
彼は、4人の子供たちと一緒に来ていた。特に覚えているのは、ポールとデイビッドだ。おそらく、本名ではなくクリスチャンネームだろう。ポールは彼らのリーダーで、とても賢い雰囲気を持った子だった。一方デイビッドはやんちゃでいたずらが好きそうな、好奇心旺盛な子だった。

 

Ramachandrapuram(ラマチャンドラプラム)という村に到着
ラマチャンドラプラムに着いた。村に着くとすぐ、「教会」と言われるところへ案内された。おそらくあまりお金がないのだろう。日本で言う「教会」とは異なり、蔵のような、小屋のような、そんな感じだった。

「日中は暑いから、涼しくなるまでここで休もう」と言い、私はイスに座るよう促され、water melonを次から次へと出された。

No, thank you. I’m full.を繰り返し、何とかスイカ攻めから逃れた私に待っていたのは、布団だった。教会の床に布団が敷かれ、ごろんとみんなで横になる。涼しくなるまでこのままなのだろうか、と一瞬不安になったが、本当に寝入ってしまったデバネーサンを放っておいて、ポールやデイビッドたちとお喋りを楽しんだ。

この教会は、韓国のキリスト教協会が建ててくれたものらしい。おそらく彼らは、そうして海外からの助けを得て、暮らしを良くしていこうとしているのだろう。キリスト教自体、海外から来たものだ。インドの場合はおそらくイギリス軍が広めたのだろう。そうした歴史を知ってか知らずか、とにかく彼らは今、外部から支援を受けて生活している。韓国キリスト教協会と、彼らの利害が一致しているのだ。「教会」の中にあった看板(?)に書かれた、村名以上にでかでかと書かれた「KOREAN」の文字に、私は少し複雑な気持ちになった。

 

 

 

南インド・ラマチャンドラプラム村を訪ねて

落花生畑で働く女性の日給は、わずかコーラ3本分(70 rupee)。
でも、これしか仕事がないという厳しい現実。

 

■3日目/ホームステイ先の牧師 Mr.Devanesanとともに

インドの未来を担う少年たちの底力
インドの少年たちに驚いたことがあった。ポールもデイビッドも、とても機械に強い。私が彼らにカメラを渡すと、彼らはパシャパシャと勝手に撮りはじめたのだ。
全く何も教えていないのに、彼らは日本の最新型のカメラを使いこなした。(事実、出発前日に買った最新型)

おまけにデイビッドは、日本語でしか表示されていないのに、「消去」の仕方まで見つけて、撮影に失敗した写真を勝手に消していた。 おいおい、間違えて昨日の写真まで消さないでくれよ、と心配になって、それ以降あまり彼らにカメラをいじらせないようにしたが、とにかく、彼らの機械への強さには驚いた。

実は、彼らもカメラを持っていた。おそらく村に一台だけあるカメラだろう。液晶もない旧式のカメラだ。その旧式カメラで覚えた技術を応用したのだろう。

驚いたのは、それだけではなかった。

寝ているデバネーサンをこっそり置いて、ポールの家に遊びに行ったときのことだ。中ではポールの兄が寝転んでテレビを見ていた。日本と同じような風景だったが、そこにはさらに日本と同じように「DVDデッキ」まであった。

突然、ポールが「cardを見せて」と言うから何のことかと思ったら、カメラに入っているメモリーカードのことだった。それを渡すと、ポールの兄はカードをDVDデッキのカード差込口に入れて、テレビで写真を見はじめた。日本の空港や、途中で寄ったシンガポールの空港の写真に見入っている。操作も慣れたものだ。
それに、一枚2MBもある画像データを、これほどスピーディに表示できるこのデッキもたいしたものだ。ポールの家は6畳1間の狭い家で、お金はなさそうなのに、どこでこんなものが買えるのだろう。とても不思議だった。

私が「これ(私のカード)は2GBだ。君のは?」と聞くと、ポールは「One GB.(ワンジービー)」と答えた。これにも驚きだ。1GBのカードなんて、日本でも1,2年前にやっと普及してきたところだ。どうやら、インドも日本も、電子機器だけは同時期に発展してきているみたいだ。

藁と土の家の中に存在する、テレビ、DVDデッキ、1GBのメモリーカード。そして、それを自在に使いこなす村の少年たち。
インドの未来は、「電脳派」の彼らが担っていくことだろう。
仲良くなった彼らは、指に嵌めたリングを、私に一個ずつくれた。

貧困 日給は、たったのPETボトル3本分
午後3時ごろ、少し涼しくなってきたので、デバネーサンを起こして外へ。落花生の畑に来た。女性たちが落花生を掘り起こし、豆と葉を分ける作業をしている。デバネーサンは、辛そうに、私に語った。

「1 day, 70 rupee」

この仕事は、日給70ルピーだという。私はこのときまだ、物価の感覚がなかったが、日本円にすれば140円だということはわかる。では、インドでの物価としてはどうなのか。
後日、私は買い物をしてわかった。PETボトルのコーラを買ったら、25ルピーだったのだ。つまり、彼女らの日給は、コーラ3本分。日本の物価にしても、450円だ。到底、暮らしていける額ではない。でも、彼女らにはこれしか仕事がないのだ。

お金を貰うためには、働かなくてはならない。働くためには、能力skillと、仕事jobが必要だ。彼女らには特別なスキルはないし、この村には大したジョブもない。

今朝までいたARPでは、女性たちにミシンを使った裁縫を教えている。そして卒業時にはミシンがプレゼントされる。ARPの人たちは、スキルが必要だということには気づいているのだ。しかし、まだまだjobはない。
でも、jobは生み出すものだ。スキルから新しいビジネスを起こせばそこにジョブが生まれ、人々のニーズを満たせればお金は動く。そうしてお金が回り回って、そのお金はまるで火力発電所のピストンのように動いて、電気が生まれるように富を生む。

ARPの人々は、それにも気づいているのだろう。
彼らは、今、正しい活動をしている。この活動が、いずれは富をもたらすに違いない。ただ、今を生きる落花生の彼女らが富を手にするには、もっともっと工夫が必要だろう。
私は思う。スキルとニーズがある場所には、きっとビジネスが生まれる。そして、土地の人がビジネスを生む以外にも、方法はあるはずだ。

たとえば、外資の力を借りる。彼らは、DVDデッキを巧みに操るほど、外の文化を利用するのが得意だ。おそらく、外資が参入しても柔軟に自分の物にしていくだろう。
では、外資の力を借りるにはどうしたらいいか。答えは、スキルとニーズにあるように思う。彼らがスキルを身につけ、外国企業に「彼らが欲しい」というニーズを発生させればよい。だから、外国企業に欲しがられるスキルを身につければよいのだ。

もうひとつ大事なのは、欲しがられる土地を持つことだ。インドは、決して綺麗な土地ではないため、現状のままではお金持ちに好かれる場所ではないだろう。意識的にもっと自分たちの住む土地を磨き、清潔感のある住まいづくり、道の整備などをすることにより、興味をもってもらえるかもしれない。

しかし現実、空港から車で何時間もかかるこんな奥まった村では、外の力を取り入れるのは難しい。まずは地元のビジネスでお金を回したり、都市から呼び水(お金)を取り入れたりして、そこで生まれた富で土地を磨く。そのためには、土木、観光・民芸品が効果的だろう。土木は土地も磨かれるし、お金が外に出て行かずに村の中で回る。観光・民芸品は都市からお金を入れることができる。さらに、土木産業で道を整備すればもっとお金が流入しやすくなる。
素人の考えだが、もっともっと工夫して、明るい未来を築いて欲しい。

しかし、カーストから逃れた人である「ダリットdalit」は、インドでは“鼻つまみ的扱い”だ。経済対策だけでなく、彼らは差別撤廃運動もしなければ、都市との繋がりすら持てない。問題は、山積みだ。

予期せぬ、突然の別れ
私は知らなかった。今日は、この村に泊まるのだと思っていた。夕方6時、車に乗るようデバネーサンに促された。また、さっきの落花生畑みたいに、どこかに連れて行ってくれるのかな?とのん気に考えていた。すると、ポールたちが真剣な顔で駆け寄ってきた。「時間がないんだから、寄るんじゃない!」と怒った雰囲気のデバネーサン牧師。「Next Time!」と真摯な顔で叫ぶポールたち。
私はこの瞬間にやっと気づいた。ああ、お別れなのだと。今日も明日も、もうポールたちに会いに来ることはないのだと。ポールたちは「またインドに来たら、来てくれる!?」と堅く握手を求めてきた。私は、約束できず、何も答えられなかった。最後に私は、ポールに本を押し付けた。日本語とヒンドゥー語が書かれている、珍しい本。さっき、ポールが熱心に読んでいた本だ。「時間がない」というデバネーサンの声の中、車は発進した。私は、見えなくなるまで、ポールやデイビッドに手を振り続けた。
覚悟をしていなかった唐突の別れとは、こんなにも辛いものなんだと、その時知った。

デバネーサン一家
かなり車で移動して着いたのは、デバネーサンの家だった。驚いた。彼は別の村の住人だったのだ。さっきのラマチャンドラプラムとは全く異なる裕福そうな村で、彼の家も立派なものだった。家には、デバネーサンと彼の妻・子供、そして隣家には兄夫婦が住んでいた。

デバネーサンの妻の手に抱かれた子は、障害をもっていた。さっきの村でも大勢の方が障害をもっており、その割合は日本より多いように感じる。あくまでも個人的な推測だが、近親婚の影響があるのだろうか……。

デバネーサンの兄、ジョージGeorgeと話をたくさんした。ジョージは非常に頭がよく、英語も上手で、気配りもできる知識人だ。 「You’re Free.ここでは、君は自由だ、リラックスして。私に、君の考えていることを話してくれ。あと、君が何を見たいのか」 ジョージの英語のうまさと迫力に、私はかえって堅くなってしまった。さっきまで英語の単語がかろうじて通じる程度の相手ばかりだったのに。突然、目の前に先生が現れて、問い詰められている感じだ。私は正直に話した。この村はさっきの村よりrichだと思う。するとジョージからすぐに反応が返ってきた。

「この村はvery poorだ。Helpを必要としている。日本に帰ったら、みんなにこのことを話してくれ。そして、弟の力になってやってほしい」と。

とても熱く語られた。その間、デバネーサンは黙っていた。私は夕食をいただいたあと、心優しい妻のサンギータSangeethaや、熱心なジョージと写真を撮り、別れた。

どこに行くのか分からなかったが、またデバネーサンの運転する車に揺られて、30分ほど走った。着いたところは、デバネーサンの実家だった。そして、彼のほかの兄(今はカルカッタに行っている)の部屋で寝た。ここもやはり、裕福な家だと感じた。

■4日目/ホームステイ先およびARP研修所との別れ

巨大湖へ
次の日の午前、デバネーサンが、インドで2番目に大きな湖だというプリカット湖Pulicat Lakeにつれてきてくれた。巨大な湖だった。そこにちょうど、向こう岸から子供たちを大勢乗せた船がやってきて、こっちの岸で子供たちを降ろしていた。どうやら、登校途中らしい。ランドセルのようなカバンを背負っている。
湖は決して綺麗な水ではなかったが、これだけ大きいと感嘆せざるを得ない。大自然。言葉が出てこない。

市場を見学
デバネーサンに連れられ、村の近くにある市場を見学に行った。とても食べ物を扱う場所だとは思えないほど、生ゴミが散乱している。売り物の魚はシートの上に並べられ、気持ち悪いほど大量のハエがたかっていた。売り主の女性たちはそのハエが全く気にならないらしく、何事もなさそうな顔で座っていた。おまけにこの真夏並の気温の中、氷も使わずに魚はどれだけ保つのだろう。私は衛生の専門家ではないが、決して良くはなさそうだ。

デバネーサンとの別れ
いよいよホームステイ終了の時がきた。デバネーサンに、プレゼントのノートとボールペンを渡し、お礼の言葉を述べて別れた。

 

 

「貧しい者の友の村」ディーナバンドゥー研修所で目にした現実

村に息づく産業や伝統療法の見学を通して、
リアルな庶民の暮らしを身近に体感した2日間。

 

■ 4日目/ホームステイ先およびARP研修所との別れ

昼 ホームステイの感想を述べる会

ARP研修センターに戻り、全員で集まってホームステイの感想を述べた。トイレや風呂など、生活様式の違いに驚いたという人が多くいた。私は以下の2点述べた。 ひとつは、少年たちが機械に強くて驚いたこと。彼らがインドを大きく発展させるだろうと感じた。
もうひとつは、助けを求められたこと。デバネーサンの兄、ジョージが言った「助けを必要としている。弟を支援してくれ」という言葉が頭に強く残っていた。「助けてくれ」とは、何を期待しているのだろうか。お金をくれという意味なのだろうか。しかしお金だけ渡しても、彼らは刹那の楽を手にするだけで、根本的な解決にはならない。いったい何を求められていたのだろう。そこで私はとりあえずこう結論付けた。

「私が何をすべきかは置いておいて、とにかく『彼らが助けを求めている』という事実だけ分かった」。

世界には、「未開の地に立ち入って文明を教えるのは先進国のエゴだ」という考え方もある。その土地にはその土地のルールがある。それを安易に壊してはいけないという考えだ。しかし、彼は違った。明らかに助けを、先進国の働きかけを求めている。だから私に何かできるのなら、喜んで手を差し伸べようと思う。

ARPとの別れ
ARP研修センターを離れるときが来た。お別れパーティで、結婚式で使うという布を貰い、子供たちに別れを告げた。
次に向かうのは、かなり離れたところにある「ディーナバンドゥーDeenabandu研修所」というところ。今度はどんなところなのか、楽しみだ。

夕方 Deenabandu研修所に到着

 

2時間くらいバスに乗り、というところに着いた。これから数日間、ここのお世話になる。
各部屋に荷物を置いた後、歓迎会が開かれた。ここでも「民衆劇」を見せてもらった。ディーナバンドゥーの民衆劇は、ARPのそれより凝っていた。役柄に合わせて衣装を着たり、小道具を使ったりしていた。身近な問題ばかりではなく、地球温暖化の劇もあった。金持ちに扮した男性が、木に扮した女性たちを切り倒していくというもの。少し、芸術的でさえあった。 ARP研修センターは子供たちを教えていたのに対し、ディーナバンドゥー研修所は大人や、少し大きい少女たちに職業訓練をしている。教えているのは、医師の夫婦だ。ここにはお金も、知識もたくさんある。貧困は感じられない。やはり、土地によって差があるようだ。

■5日目/ディーナバンドゥ研修所での一日

ヨガ教室
朝早くにおきて、ヨガを体験した。ぼんやりとして、とても気持ちが良かったためあまり覚えていないが、主に呼吸法だった。呼吸を整えるだけで、これほど気持ちよくなれるとは、ヒトのからだは何とも簡単だ。

サトウキビから砂糖を作る
サトウキビ工場に見学に行った。土地の産業なのだろう。サトウキビを機械で搾り、その汁を煮て、固めて、丸めて、砂糖を作っていた。商品企画部員として、想像通りの製法だったことにちょっとがっかりしつつも、勉強になった。

蛇を狩る人々の村
次に、蛇を狩って生計を立てている村に行った。彼らは藪に入って蛇をとり、その皮を売ったり、蛇を使って薬を作って売ったりしている。薬の作り方を聞いたが、秘密らしい。この日の狩りでは、残念ながらお目当ての毒蛇は獲れなかったが、いろんな爬虫類を見せてもらった。
ついでに、彼らの生活を覗かせてもらった。4畳半ほどしかない狭い家に入ってみると、なんとそこにはテレビがあった。その隣の家にもまたテレビがあった。同じ村なんだからそんな高そうな物を一家に一台買わなくても、みんなで集まってみればいいのにと思った。

村に伝わる伝統療法も教えてもらった。胃腸が悪いときは、手をあげて、身体を横から叩いたりしてマッサージをする。これで良くなるという。

なんと非科学的な、と正直あきれた。しかし、日本人チームのひとりであるお医者さんが「調子が悪い」と言っていたのでやってもらい、「良くなった」といったので、あながちバカに出来ないな、と感心した。
よく考えれば、効果があるから伝えられてきたのだろう。だから、こういう医療も応用していけば、日本の臨床ももっと良くなるかもしれない。

 

二度目のホームステイへ

午後の勉強のあと、ホームステイへ行くこととなった。ホームステイ先は、Mr. SubramaniスプラマニというGovernment Stuffの人の家だ。
どんな立場の職なのかは分からないが、Agricultureといっていたから農業関係なのだろう。あと、とてもお金がありそうな家だったため、偉い職の人であることは間違いなさそうだ。
彼の息子たちは非常に優秀で、長男は29歳にしてまだ学生をしているらしい。博士課程か何かだろうか。また、たまたま訪れていた甥も、非常に賢かった。なんと、同僚が持っていたカメラをみて、その値段を当てたのだ。私たちは驚愕して、得意気に笑うその甥を見た。彼は、どう見てもまだ20代の青年だった。インドの人々のITの知識は、私たち日本人よりも上かもしれない。

■6日目/スプラマニ氏の住む村での一日

「JAPAN! JAPAN!」と興奮する子供たちに囲まれながら、私たちはこの村での一日を過ごした。カラフルな家がたくさんあり、特に貧しさは感じられない。
ここはダリット(ヒンドゥー教から逃れた人)の村ではなく、ヒンドゥー教の村のようだ。ヒンドゥー教の寺院がある。また、スプラマニ氏の家では、裁縫も教えていた。職業訓練だろう。

さらに道を歩いていたら、魚の行商に出会った。その行商の周りを、奥さんたちが囲んでいた。そして、奥さん達からひたすら「値切り交渉」の嵐が・・・。
もの凄い気迫だった。まるでケンカしているかのような。私の地元では、まず見られない光景だった。

街の真ん中には、小さいが非常に良く目立つ寺院があった。左は、特別にその中を見せてもらったときの写真。彼らの崇拝するヒンドゥーの神の絵が飾ってあった。今まで、「ヒンドゥー教のカーストが差別の悪玉」かのような話ばかり聞いてきたため、悪いイメージばかりがつきまとう。しかし、ヒンドゥーを信じる人々にとってはかけがえのないものなのだ。いけないのは、カーストという制度だけなのだ。

今回の旅で、非常に重要となる貼り紙を見つけた。これは、村人たちに「○○するのはいけないことですよ」ということを教えているイラストだ。
他宗教に怒りを覚えず、認めること。女児にいたずらしてはいけない、いじめてはいけない。女児を殺してはならない。妻を殴ってはいけない。強姦してはいけない、など。村人たちは、昔からの風習で「善悪」の考え方が偏っている。それを直そうという運動だ。特に女性への差別が多いのだろう。半分は女性と男性の力関係に関するものだ。

どこの国でも女性の立場が弱い時代があったが、民主化が進むにつれて「平等」になってくるものだ。インドも現在、その過程にある。こういった運動が進めば、いずれは女性も楽しく暮らせる国ができるだろう。ぜひとも応援したい。

次に訪れたのは、米のもみがらを取り去る工場。だだっぴろい敷地にコンクリートの建物があり、その中には重々しい機械があった。おそらく日本と同じと思われる風景だったが、働く人々の顔は険しかった。工場は立派だが、そこに働く賃金は安いのかもしれない。

工場の人たちが、工場近くに生っているココナッツを取って、カットし、飲ませてくれた。飲んでびっくり。甘いかと思っていたのに、ほとんど甘みがない。まるで、喫茶店でジュースを飲みきったあと、残った氷が溶けてできあがった薄いジュースのようで、お世辞にも美味しいとはいえなかった。
このココナッツを、インドの農村の人たちはよく飲んでいる。おいしいかどうかはさておき、暑い地域では水分補給になるし、おそらく身体を冷やす効果とかがあるのだろう。

どこに行っても、大抵、子供たちに囲まれる。たぶん、ひと昔前の日本と同じで、「ガイジン」は珍しいのだろう。私も子供の頃、外国人と話したときは嬉しかったし、外国人と握手をした友人なんかは「オレ!この手は洗わねえ!」とかいって喜んでいた。その経験があったため、何も不思議なことはなかったが、こうも喜ばれると自分がスターかなにかになったように勘違いしそうだ。

夜、子供たちが家に押しかけてきて、ノートの切れ端を片手に「サイン!サイン!」とせがまれた。私は喜んでこれに応じた。しかし、日本と同じで、横入りしようとする子供や、他の小さい子を押しのけてくる子、ただじっと自分の番が来るのを待っている子、いろんな子がいた。小さい子を突き飛ばして割り込んできた子にはさすがに私も怒って、「いけないことをしたから、君は後だ」と言って、最後に回した。できるだけ全員に書いてあげたかったが、次男ラジェシュクマルたち大人が「もう終わりだ!食事の時間だ!」と言って子供たちを追い返してしまった。スケジュールも大事だが、いい子にして順番を待っていた子がちょっと可哀想だった。

私と同行していた社員も、少し離れたベンチでサインをせがまれていたが「ちゃんと順番に並びなさい!女の子が先だよ!」と、子供たちを上手に躾けているようだった。小さい子に英語は通じないので、言うことを聞かない子もいたようだが、立派な大人に成長してほしいという社員の気持ちに、私は胸を打たれた。
大人として、私もいずれは親という「教育者」になる。そのとき、子供のことを思えば、厳しく躾けることは必要不可欠だ。私も彼のように、今からしっかり心がけていかなければ。

夜、食事をした後、スプラマニ氏の家の中に入れてくれた。(それまでは、離れにあるゲストルームで過ごしていた)家の中はカラフルで整っており、テレビがあった。そのテレビを見て、私と同僚はびっくり!なんと、日本のアニメが放送されていた。日本の「オタク文化」は、世界に誇るものがあるというが、こんなところでもその文化が見られるとは驚いた。
スプラマニの家は名家らしく、耳の聞こえない次男を除いて、子供たちはみんな大学まで行っている。そして、インドで学の高い人は日本の学生に負けないくらい知識を持っている。やはり、インドは末恐ろしい。このまま発展すれば、人口でも、技術でも、日本が太刀打ちできないほど進んだ国になっていくだろう。

 

都市と農村の地域医療と生活文化から見える真実

差別とは。貧困とは。豊かさとは。
いくつもの出会いと別れ、驚きと感動を通して現実を直視した10日間。

 

■ 7日目/スプラマニ氏との別れ

朝、日の出よりも早く起きた。朝の村の様子が知りたかったからだ。家の屋上に上って空を見ていたら、朝の6時ごろ、前日に立ち寄った寺院の方から「ヤンヤヤンヤヤンヤ~~」とけたたましい音楽が流れ始めた。その音楽が流れた数分後、全ての家から女性が出てきて、家の前に水をまき始めた。
水撒きが終わると、家の中に戻り、中から「シャッシャッ」というホウキで掃く音が聞こえてくる。やがて家の外までやってきて、そのゴミを道路の端に寄せて捨てた。次に、例のお絵かきが始まった。白いチョークを使って、玄関にまじないの絵を描いていく。音楽を合図に、この儀式がすべての家で同時に行われていた。

私は、素晴らしいと思った。宗教は冠婚葬祭に関わるものだと思っていたが、ヒンドゥー教は生活に密着している。宗教のおかげで規則正しい生活ができ、人々の健康が守られているのだ。初めは「こんな大音量で音楽を鳴らして、みんなが迷惑するんじゃ」と思ったが、その逆だ。日本の田舎でよくある定時のサイレンのように、この音楽で生活リズムができているのだ。

別れの時間が近づいてきた。「オープントイレにいこう」というフィールドワーカーたちに誘われて野原に行くと、朝も早くから子供たちが押し寄せてきた。笑いながら、みんなで一緒に用を足した(男の子だけ)。

同僚が朝のひげ剃りをしていたら、スプラマニ氏が興味津々で寄ってきた。電気シェーバーが珍しいらしい。同僚がシェーバーを渡すと、彼はなんと、自慢のひげをすっかり剃ってしまった。良いのだろうか。思わずやってみたくなったのか、記念にしたかったのか分からないが、非常に面白い姿だった。最後に、彼の家族と写真をとってお別れをした。

スプラマニ氏の長女が食事のときにいつも連れ添ってくれたが、私が「Thank you」というと彼女は必ず「No thank you. We’re friends.」サンキューは要らないわ、私たちは友達よ!と言うのだ。始めは明るくて楽しい子だから、「気を使わないでいいよ」という意味で言っているのかと思ったが、実は別の理由があるらしい。
後で聞いた話だが、インドでは(もしくはこの地域では)、「ありがとう」は日常会話では使わないそうだ。かしこまった場で使うものであり、友人同士では「ありがとう」は言わないのだそうだ。

ホームステイのお礼にとして「日本のノート」と「ボールペン」を渡した。また、村の子供たちへのプレゼントとして、クレヨンをいっぱい渡した。いつかまた会えるだろうか。私はここがインドのどこに位置するかも分かっていないから、会えないかもしれない。そんな寂しい気持ちで、ホームステイ先を後にした。

 

ANITRAの事務所に戻る前に、どこかの村で全員が集まった。「事務所には戻らず、このまま病院を見に行きます」という。寄ったのは「プライマリケアセンター」。町の小さな病院のようなところだ。
国か、自治体が運営していて、ここでは治療が無料で受けられる。主に、気管支の病気(かぜなど)や、下痢の患者が多く、あとは妊婦や不妊手術を受ける人が来る。病室は広く、設備は整っていた。医師は3人、患者は月に300人来るという。

ここでの話で驚いたのは、「出産するとお金が貰える」ということだ。ここで出産をすれば、700ルピー貰える。貧しい家庭の場合は、6000ルピーももらえるらしい。これは国の政策で、衛生状態の良いところできちんとした分娩を行ってもらうようにするためらしい。非常によいことだが、6000ルピーは大金だ。果たして良いのだろうか……。(ARPのホームステイ先では、1日70ルピーで女性たちが働いていた)

さらには、病院のデスクの上には、下の本も置いてあった。見ると、TAMIL NADU STATE AIDS CONTROL SCIETYと書かれている。タミル・ナド州の、エイズ・コントロール協会だ。エイズに関して取り組んでいるらしい。
この一環で、病院の待合室にはコンドームが無料で置かれていた。しかし、これを取っていく人はほとんどいない。コンドームの大切さが、まだ周知されていないのだ。大切なのは物やお金を与えることではなく、当人たちが「気づく」こと。必要性を知識として知っていたとしても、心からそれが必要だと感じること、つまり「気づき」がなければ、人間は動かない。
まずはAIDSの怖さをよく説明し、気づかせなければならないだろう。

それから、またここでも女性差別と出会ってしまった。なぜこうも、差別が多いのだろう。その差別とは、不妊手術だ。これ以上は子供が要らない、となると不妊手術をすることはよくある。ここまでは日本でも一緒だ。しかし、不妊手術を受けるのは、ここでは女性ばかり。卵管をけっさつする手術や、子宮にIUDをつけるなどを行っている。日本であれば、男性のパイプカットなどもあるが、この国ではそれはないらしい。おまけにコンドームも使っていない。個人的には、女性に負担させ、男性は何も負担しないとは、全くあきれて何も言えない。女性たちはこのことをどう思っているのだろうか。もし不快に思っているのなら、いずれ立ち上がって変えていくべきだと思う。

非常に興味引かれたのは、薬だ。意外にも、どれも国が認めたしっかりした医薬品を使っている。そして、インド独自のハーブを処方した薬も見つかった。いわゆる「アーユル・ヴェーダ」だろうか。聞いたことのない薬草がたくさん使われており、非常に興味深かった。西洋から見れば、日本の漢方薬も同じように不思議なのだろう。

ここでようやく、ANITRA事務所へ帰った。みな、ホームステイで体調を壊したりしたらしく、少し疲れた様子。しかし、帰ってからも勉強会が待っていた。
「ANITRA TRUST」というくらいだ。お金をやりくりするのは得意なのだろうと思っていたら、やはりそうだった。村でのお金の流れを作り、村人の起業や生活を応援していた。みんなで集めた資金からクラスターバンクを作り、そこからお金を借りて村人が事業を起こす。ここでは、葉っぱを使った編み物を作って売る人を紹介された。また、ほかにも病院での治療費に充てたりする人が多いようだ。

夜、散策を終えたあと、食事の前にANITRA事務所の中を歩き回ってみた。すると、パソコン教室を見つけた。先生ひとりと、たくさんの女子生徒がいた。私が部屋に入った途端、大騒ぎ。パソコンを打つ姿を写真に収めて回っていたら、あるとき突然、「こっちこっち!」と引っ張られ、なぜかパソコン画面を撮るよう急かされた。「なんだろう?」と思いながら撮ると、次は違う壁紙を表示して、「これも撮って!」とせがまれる。私は訝しげに、そのやりとりを10回ほど繰り返した後、「こんなの撮っていても仕方ないし…」と思って逃げた。

そして、さっきの続きで、パソコンに向かう女生徒を撮っていこうと思ったら、同じ子のところで同じように他のところへ連れて行かれる。顔は笑っているが、かなり強引な引っ張り方で。その後、みんなの写真を撮ろうとしたら・・・やはりそうだ。ある女の子だけが、のけ者にされているように見える。おそらく、いじめだ。私は嫌な気持ちになりつつも、どんな集団にもあることだ、と思いながらこれを受け止めた。仕方のないこととして処理してはいけないが、何をしてあげればいいのか分からない。とりあえず私は、その子をできるだけ喜ばせてあげたいと思い、邪魔する他の子を押しやって、全員平等に写真を撮った。

女子のいじめは、いじめっこといじめられっこがよく入れ替わるものらしい。例えば、いじめ関係にあった者同士がいつの間にか「お友達」になり、かつての他の「お友達」がいじめられっこになるとか、いじめの主犯格がいつの間にかいじめられっこになるとか、様変わりするのだ。おそらくこのいじめも、いつか立場が変わってくるのだろう。しかし、いじめがなくなることはないと言うから、また悲しいことだ。

その夜は、パーティが開かれた。お酒を飲んだり、高校生が日本のヒップホップダンスを披露したり、酔いに任せて大人たちが「大きな栗の木の下で」を踊ってみたりした。ANITRAでの最後の夜は、そうやって締めくくられた。


■8日目/一転、都市へ、そして帰路へ

朝、ANITRAを出発し、ディーゼルのガソリンをバスに入れて、都市へと出発した。都市のホテルのレストランで、食事をとった。美味しいには美味しかったが、私としてはANITRAやホームステイ先での料理の方が口にあった。慣れてしまったのではなく、本当に、田舎の手作り料理の方が美味しいと思う。

食事の最後に、ハーブが出された。3種類あったが、「におい消しだ」といってそれをほおばる姿を真似て、ひとつまみ、ぽいっと食べてみた。臭い、まずい。いや本当に、我慢できない匂いだった。とてもじゃないが食べられない。一種類だけ食べて、なんとか飲み込み、後は試すことができず諦めた。このハーブ、日本のインド料理店なんかにもあるらしい。もう一度、チャレンジしてみなければ。

その後、寺院をいくつか回った。寺院というより観光地で、おかしな物乞いがたくさんいた。ヒンドゥー教の文化には詳しくはないが、神様の名前は本やテレビゲーム、漫画などによく登場するので聞いたことがある。シヴァ、ヴィシュヌ、ナーガなどだ。解説の端々にその単語が聞き取れた。今までファンタジーの世界の言葉のように感じていたこれらの名前も、このように宗教に関連付けられると、すごく身近で現実的なものに感じられた。不可思議なものに自分だけが近づけたような、自慢したくなる気分になった。

 

昼食を終え、都市へやってきた。もうここは、インドとは思えない。日本とほとんど変わらない。唯一違うのは、雰囲気だ。その後、都市部にあるANITRAのチェンナイ事務所にも寄り、そこでお礼のパーティをして、チェンナイ空港から旅立ち、日本への帰路についた。

 

 

視察を通して垣間見た南インドの民衆文化と暮らしの実態

貧しいながらも、笑顔で前向きに生きている南インドの人々とのふれあいが、
これまでの、そしてこれからの、自分を見つめ直すきっかけに。

かねてよりの希望であったきずなASSISTボランティア研修に3月20日~29日と参加させていただいた。

今回はインド。貧富の差がかなり激しいと言う。「北インドと南インドは違う国と考えていい」との情報もあったが、そもそも日本の文化との違いが大きいので南北問わずカルチャーショックはことのほかあるだろう、と不安と期待が入り混じった気持ちで事前準備をした。

■ シンガポール経由でチェンナイへ

日本を発ち、シンガポール経由で旧マドラス、チェンナイへ。空港を出た瞬間、ムワッとした熱気、クラクションの音。車、人でごった返していた。クラクションはどこへ行こうが変わらない。とにかく鳴らす。「抜きますよ」「ここにいますよ」と、意思表示はすべてクラクション。常に鳴らすので慣れるのに時間はかからなかった。空港から2時間ほど移動して、ARP研修センターに到着。

1980年に誕生したARP(Association for Rural Poor)は、タミルナドゥ州に研修センターを構えているNGO。ダリット解放運動を軸に子供たちの教育なども行っている。ダリットとはカースト外(厳密には低カースト)の人々で「抑圧された人々」という意味がある。1950年に身分差別は法的に撤廃になっているが、宗教の影響や長く続いてきたことも手伝って根強く残っている。

子供たちの裁縫学校や身体障害児の施設があるARP研修センターに到着したのは、深夜1時を回っていたと思うが、スタッフや子供たちが温かく迎えてくれた。その日は宿泊施設で就寝。天井にあるファンのおかげで快適に眠ることができた。

■ 素晴らしい笑顔と優しさ

翌朝、子供たちに挨拶をすると恥ずかしそうに返してくれた。みんなキラキラした、また力強い目をしていた。カーストによる抑圧のため職業も制限される中、手に職を、といった位置づけで裁縫を学んでいる女の子たちは未来への希望に満ちあふれているように見えた。それを手助けするARPのスタッフもみな優しい。

ダリットの人々が社会と戦っているというのを子供たちは把握しているのか。そんなことは子供たちには関係ない。毎日を必至に、楽しく生きている。

玄関(施設の全て、門にも)にフラワーサインと呼ばれるものがあった。綺麗な模様の花の絵がチョークで描かれていた。歓迎の意味だと聞いた。後日詳しく聞くと、起源は虫除けだそうだ。昔は米粉でフラワーサインを描いており、蟻がそれを食べるため玄関に群がる。その蟻が害虫も食べてくれていた、とのこと。生活の知恵と美術の合体だ。

■ 美味しい食事に支えられ

朝の瞑想に少し参加し、朝ご飯をいただいた。パンだったので少し残念。カレーだと思っていた。その後、毎日毎食カレーを食べることになるのだが。
私にはインドの食事が合っていたようで、インドで少し痩せるかと思っていたが、あまり痩せなかった。日本での食事量より摂っていたかもしれない。スタッフの気づかいで食事があまり辛くはなかったこともある。南部での主食は米。ナンはない。基本的に食事は手で、慣れてしまえばなんてことはない。スプーンより早いかもしれない。

食事を終えると、ARPの代表であるフェリックスさんのお話を頂戴するとともに、子供たちによるダンスの披露もあった。伝統的なダンスを残していくこともやっているそうだ。全員華麗に踊っていた。

■ 民衆劇の役割と歴史背景

その夜、我々の歓迎会が開かれた。そこでは民衆劇を披露することとなった。民衆劇とは、民衆が主体、主役となって劇を作り、その課程を通して自分たちの生活現状・社会状況を分析し、状況を変革していく方策を互いに学び探り合うことを目的としている。一つの参加型学習方法のようで、昔から啓蒙活動としてエンターテインメントとして親しまれてきたようだ。

歌、踊り、笑い、涙、すべての要素を取り入れつつ、問題提起を図り観客に知って考えてもらうという難しいものだ。2つのグループに分かれそれぞれが別の問題について発表した。
我々のグループは「多国籍企業による土地の買収、乗っ取りに伴う農民の難民化」について発表することとなった。地元の劇団員の人との共同作業となり、教えてもらいながらのリハーサルとなった。私の役どころは、農村を買い叩く多国籍企業の社員。日本語、英語、タミル語の同時通訳でのリハーサルとなったが、本番は半分以上がアドリブ。それでも非常にいい発表となり、大きな拍手をいただいた。
民衆劇はダリット開放運動において、人々に問題を理解してもらうのに非常に重要なものだということがわかった。

■ ホームステイでの体験と笑顔

翌日はホームステイへ。まるっきりの単独となる。あいさつ程度の現地語を教わったが、片言の英語で何とかなった。私のステイ先はペリヤベドゥと呼ばれる村のキリスト教の牧師のお宅だった。ローカーストから抜け出すためにキリスト教に、という住民は多いそうだ。

ステイ先の家族はもちろん、村の人々は温かく、どこへ行っても歓迎してくれる。どの家にもプラスチック製の椅子がいくつもあり、とにかく座らされる。インドにいる間はどこに行ってもとにかく椅子が出てきた。
その村の住民は、近くにある塩湖での漁を生業としている。また塩田も大事な収入源のようだ。かつては塩をめぐり戦争が起きたほどだ、と言う。

彼らの移動手段は基本的にはバイクだ。8割方が日本車だった。二人乗りは当たり前で、ヘルメットはつけなくてよい。というよりも、免許を持っている人間に会わなかった。彼らは「基本的にはNO POLICEだ」と笑っていた。

食事はみなが揃って食べることが基本だが、順番にとる。客人がいる場合はまず客人から。次いで家長や男性陣。次に子供たち。残ったものを母が食べるといった風だ。食べている間、みんなでじっと注目しているため食べ辛かったが、おいしかった。根強く残る男尊女卑なのか、なぜ女性が後に食べるのだろう。みんなで食べたほうがおいしいのに。
風呂、トイレはなく、水浴び場のようなものがあったが、トイレは「そのへんで」。物陰を見つけトイレとする。開放的だ。

近隣の村にも連れて行ってもらった。貧しいながらもみな笑顔で暮らしていたのが印象的だった。

■ 健康は権利である

ステイ先家族に別れを告げ、その晩一行はディナバンドゥ研修センターへ。ディナバンドゥとは「貧しい者の友の村」という意味だ。かつて病院だったその施設は現在、地域共同体保健センターと農村生活改良センターがある。また、全寮制の小・中学校等もある。基本活動はやはりダリット解放運動となる。1984年に発足、ANITRA(NGO)とという団体へ。ここではいろいろな人の話を聞いた。

クラスターバンク(信用金庫)の設立も手伝っている。高利貸しに頼っていた住民が多く、それを回避するために住民主導で行っている。相互扶助の観点で年利も安く助け合っていく。伝統的な産婆さんのケアも活動の一環だ。
彼らの意見として「健康は政治の結果表れる。健康は基本的な権利であり、健康につながっているものは衣食住や教育である」とのこと。まったくそのとおりである。

■ 研修で学んだ「想い」

インドの貧しい人々は、日々戦い、学び、努力し、それでも明るく前を上を向いて歩み生きている。毎日を「こなす」ように生きるようになってきている自分を見つめ直すいい機会となった。彼らのためにできること、などおこがましいことを言うつもりはないが、同じ人間として遠い所から何か協力できることはないか、と日々考えながら生きていきたいと思う。

大地はつながっていないが、空はつながっている。同じ空を見ながら頑張っている、とインドの地に思いを馳せ、この研修で得たことを糧に仕事やプライベートにまっすぐ打ち込んでいきたい。

●ARP(Association for Rural Poor)とは
20くらいの農村を対象に活動している「農村貧困者のための協会」。「dalit」という、カーストから逃れてキリスト教になった人たちが中心で、各農村の牧師さんたちが協力して活動を行っている。ARPの本部には、子どもの教育施設(小さな学校のような)、裁縫教室があります。

● ANITRAとは

住民参加型のNGOで「平等」「機会の公正」を軸に住民の組織化、若者の教育等を行っている。

 

海外レポート

  • スリランカ・レポート 2019年3月21日〜3月31日

  • スリランカ・レポ−ト 2018年3月20日〜3月30日

  • 南インド・レポート 2017年3月20日〜3月30日

  • 南インド・レポート 2016年3月20日〜3月30日

  • バングラデシュ・レポート 2014年3月20日〜3月29日

  • バングラデシュ・レポート 2013年3月20日〜3月29日

  • 南インド・レポート 2012年3月20日〜3月30日

  • 南インド・レポート 2011年3月19日〜3月28日

  • べトナム・レポート 2010年8月16日〜8月25日

  • 南インド・レポート 2010年3月20日〜3月30日

  • ベトナム・レポート 2009年8月16日〜8月25日

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  • ベトナム・レポート 2008年8月16日〜8月25日

  • ベトナム・レポート 2007年8月15日〜8月24日

  • スリランカ・レポート 2007年8月8日〜8月18日

  • ベトナム・レポート 2006年8月16日〜8月25日

  • インドネシア・レポート 2006年8月9日〜8月19日

  • ベトナム・レポート 2005年8月15日〜8月24日

  • スリランカ・レポート 2005年8月8日〜8月20日

  • バングラデシュ・レポート 2004年8月25日〜9月4日