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インドネシア・レポート 2006年8月9日〜8月19日

坪井博之

インドネシア・ジャワ島中部地震の被災地を訪れて

 

インドネシア(ジョクジャカルタ)のジャワ島中部地震被災地の2カ所を訪問してきました。山間部の村と、海に近い村です。

 

最初に山間部のグヌマヌという村を訪問しました。そこは、地震によって多くの家屋が崩れていました。「比較的被害は大きくなかった」と聞いていましたが、古い家屋はすべて壊れているか、傾いてしまって、住むことができない状態で、そのままになっている家も多々ありました。

 

そこで針治療をしているチームに会いました。彼らはNGOで研修を受けていて、東洋医学を学び数日前にこの村に来てテントを張り、移動しながら活動をしているそうです。

 

被災地からは病院が遠く、ケガの治療になかなか行けないため、ここに治療を受けに来る人や、行きたくても行けない人など多くの人が治療に来るそうです。また復旧作業で疲れた身体のケアをする人たちにも利用されていました。

 

この村では指圧による治療もしていました。針治療と同様に、村人はさまざまな理由で治療や身体のケアのために訪れていました。
針治療も指圧による治療も痛みや疲れをとるためだけでなく、家が壊れたことによる精神的ショック、また家族を失ったことによる喪失感、そういった心のストレスを持った人も多く訪れていました。

 

この治療はそういった心の治療にも大変活躍しているそうです。何よりこの場所に来れば仲間がいて、「コミュニケーションをとれる憩いの場になっている」と言っていました。

 

実際に指圧を体感させていただきました。腕や手や足など指圧してもらうと、少しずつ体が楽になり、疲れが取れることで気分も良くなる。

 

物資の援助や外傷の手当てだけでなく、心のケアも繰り返し行っていくことが、被災者の力になっていくと感じました。

 

 

ジャワ島中部地震の被災地で見た光と陰

 

インドネシアでは、針治療や指圧治療などが盛んに行われている反面、問題も多くありました。
それは、病院などによる治療費が高く、簡単には行くことができないこと。山間部にあるため、 病院までの道のりも遠く困難になっているそうです。

 

政府・行政からの支援は全くというほどなく、家屋の修復など村の人々たちで行うことばかり。
ボランティアで手助けにきてくれる団体や近隣の村から手伝いに来てくれる人たちも若干あるそうですが、 資金においてはやはり難しいそうです。

 

山間部は海岸部の村と比べると被害は少ないということで後回しになっていることもあるそうです。
この村の被害状況が政府に伝わるまでに数週間かかったそうですし、情報も村になかなか入ってこないそうです。

 

また、家を造る構造にも問題があり、レンガを積み上げただけのものがほとんどでした。
「レンガは自分たちで作ることができ、費用もかからない。 ンクリートは費用がかかるから無理だ」と言っていました。そして「レンガの真ん中に穴を開け、そこに鉄筋を使うことも費用がかかりすぎてできない」とも。
だから、ほとんどが四角いレンガと木で作った家になるそうです。

 

この村の人々と交流会をしながら色々な話を聞きました。 みんな悲観的になっているかと思いましたが、前向きにやっていこうという笑顔も見ることができ、 それが唯一の救いでした。
私自身、少しでも元気になってほしいと声をかけたものの、
同時に何もできない自身の無力さも感じました。

 

 

海岸部の被災地(ジョングランヤン村)を訪ねて

 

山間部の被災地を後にして、海岸部の被災地(ジョングランヤン村)へ行きました。やはり山間部の被災地よりも状態はひどく、レンガの家屋はガレキの山になっていて、ここでも古い家やレンガ造りの家はほとんど崩れていましたが、訪れた村は少しずつ整備をし始めていました。

 

村人は言いました、「一番ひどい時は乗り越えた」と。

 

ここは農業を中心とした村で、206世帯あり、半分くらいの家が倒壊し、死傷者も多く出たそうです。この村はYEU※1の看護士が対応していますが、現在は病気やケガの治療、村民の中でも特に乳幼児、妊婦、高齢者の健康管理、健康診断を中心に行っているそうです。

 

被災地では呼吸器系の病気(咳など)や外傷の方が多いそうです。レンガが崩れてくると頭はとっさに隠しますが、むき出しの足などにガレキが刺さり、骨折や切り傷を負う人が絶えないそうです。その外傷の痛みからストレスが増え、そこから高血圧になる人や、胃痛などを訴える人も多いそうです。

 

しかし、日本と異なることは村の組織がしっかりしていて、この村の女性や近隣の村の女性たちが協力して、YEUの手伝いをしていました。薬を運んだり、看護士の手伝いをしたり、昔からお互いの村同士が協力し助け合いながら生活をしているそうです。

 

ジョングランヤン村は、他国からテントや食糧などの援助を、少しずつですが受けていました。
日本の国旗のついたテントも発見。大きな敷地内のレンガの崩れた山の隣に、テント生活をしている家も多くありました。また、とりあえず木で造った骨組みの家は、全壊は免れていたので、レンガの代わりに竹を編み、それを壁の代用にしている家もありました。

 

しかし、いずれまたレンガの壁に造り直すようで、山間部同様、レンガを積み上げる家では耐震強度が明らかに弱いと感じました。日本の家のように鉄筋を使って強度を増すということはなく、お金がないからこのレンガの家を造るしか方法がないというのが辛い現状でした

 

※1 Yakkum Emergency Unit インドネシア・キリスト教医療奉仕団ヤクムの緊急救援部門

 

 

被災地で力強く生きる人々と出会って

 

村の中を歩いて見てまわっていたとき、一人のおばあさんに話しかけられました。そして、そのおばあさんは言いました。

 


「ここは私が住んでいた家だが、すべてが崩れて今は何もなくなってしまった」
と。

 

確かにそこにはレンガの山とビニールシートで小さい屋根を作っただけの場所がありました。おばあさんに話を聞くと、25年前に主人を亡くしてからは一人で住んでいたそうです。地震後、家が全壊してしまい、今は少し離れた村の息子の家に住んでおり、ときには近所の家にも泊めてもらっているそうです。

 

なぜか息子たちには援助がきているのに、私のところには援助がきていない。しかし、国や政府(行政)に期待はしていない。私には近所の人たちの手助けがあるから大丈夫」 「今回、日本からお客さんが来ると聞いて、息子のところから楽しみにやってきた」 そう言って、おばあさんは何度もうれしそうな笑顔で握手をしてきました。

 

このおばあさんは、今でも伝統的なお菓子を村の人々と分担して作っていました。それで生計を立てているそうです。このお菓子は夜に作り、市場や町へ売りに行くそうです。1日で2000ルピア(約23円)ぐらいの稼ぎだそうです。今回たまたまお菓子を町に売りに行っている時に地震が起こり、家は倒壊したものの、ケガを負わずにすんだそうです。

 

このおばあさんと別れて、次の目的地へ移動する途中に小学校を見つけました。インドネシアの小学校は、日中暑いため、普段は朝6時30分頃に始まり、昼12時30分には終了します。しかし、中には倒壊の恐れがあるためか、テントを張って緊急用の教室として使用している学校もあり、現在は朝と夕方に分けて授業をしているそうです。

 

 

海岸部の被災地で見た援助の実態

 

海岸部の村は、山間部に比べればまだ援助がきているという話でしたが、海岸部の村でも、やはり援助不足は深刻な問題でした。

私たちが訪れた海岸部の村では、国(行政)からの資金援助はほとんどなく、一方、他の諸外国からの援助はあるそうです。行政は「資金援助をしていきます」と言うものの、いくら訴えかけても何もしてくれないのが現状。諸外国はテントや食糧などそれぞれの国々がそれぞれの援助の方法でしているそうです。

しかしながら、そこにも問題が……。各国々の連携がないため、どの国からも同じようなものが届き、豊富にあるものと欲しいものがないという偏りが生じていたのです。

また、政府に資金という形で援助があったとしても、政府からの援助はあまりないし、不透明になって消えていくことも多々あると話していました。
しかし、そうであるがゆえに、村同士のつながりや助け合いというものがとても強くなっている気がしました。
山間部と同様に辛い状況の中で、まだまだ問題や課題は多くあるものの、明るい笑顔で前向きに自分たちで乗り切ろうという気持ちが感じられました。

 

その後、YEU※1に訪問して被災情況を聞きましたが、2006年5月27日、マグニチュード6.3の地震でジョグジャカルタを中心に約5,000人以上の死者を出し、家屋も約155,000戸が倒壊しました。最初の1週間で多くの死亡者が出たそうです。

その死因のほとんどが家屋の崩壊によるもの。骨組みのないレンガの家は人が安全に避難できるスペースがないため、押しつぶされる被害によって多くの死傷者が出たそうです。
地震直後は3種類のテープを患者につけ、最重度(即手術治療)、重度、軽症に分けて治療を行ったと言っていました。現在は一番ひどい状況は過ぎ、第二段階の体や心の治療を中心に行っているとのことでした。

※1 Yakkum Emergency Unit インドネシア・キリスト教医療奉仕団ヤクムの緊急救援部門

 

 

震災後の人々の命を支えた地域医療の現場にて

 

医療の現状を知るために、国の保健所、私立の病院、リハビリセンター、伝統療法、皮内針治療※1の現場を訪問しました。
私たちが訪問したリハビリセンターは、25歳以下の身体に障害を持つ若い人たちが、社会復帰を目指すための自立支援を本来の活動目的とし、職業訓練として松葉杖を作ったり、レンガを作ったり、いくつかのコースが用意されていました。

このリハビリセンターでは「現在は健常者でも仕事があまりない。障害を持つ人たちについては色々なところに働きかけてはいるが、さらに苦しい状況にある」とのことでした。
また自立した後もその人を見続け、「今後も何が必要なのか?」を見極め支援しているそうです。

後天的な障害は、交通事故や木から落ちたケガによるものが多いそうですが、震災後は被災者のケアが中心になっていました。
地震発生後、病院では多くの患者に対応しきれず、中には骨折していても外見からはわからずそのまま帰してしまい、後で気付いたときには骨がつかない状態になっているケースがあったり、また、次から次へと患者さんが来るので治療後はすぐに退院となり、完治する前に感染症などを起こすことがあったそうです。

そういった背景の中、このリハビリセンターはYEU※2と協力してその対応をしていました。また、病院のベッドの数も足りないので、リハビリセンターの図書室などにベッドを用意するなど、病院で対応しきれないところをフォローしていました。車椅子も手づくりで、椅子に車輪を付けたものを活用していました

 

また、地震によるケガなどの体のリハビリだけでなく、心のリハビリも行い、患者だけでなく家族にもリハビリの方法を教えるようにしていました。
こうした現場を目の当たりにし、病室や臨時の病室に寝ているたくさんの患者さんやリハビリをしている人々にお会いして、改めて地震の怖さを感じ、息を呑む思いでした。

私立の病院にも訪問しましたが、そこは針治療も行っていました。西洋医学で治療を施した後に針治療を行っている病院で、薬が効かない時や他の治療との相乗効果を目的に活用していました。

インドネシアの平均寿命は約66歳で、病気は糖尿病が多く、次に高血圧や脳梗塞等が多いそうです。しかし、私立病院は費用が高いため、公立病院に行かざるを得ない人も多く、また、通院が必要な状況でも治療費が払えず、治療半ばでやめてしまう人も少なくないそうです。

現在、病院では支払いの分割に対応している病院も増えているそうです。インドネシアでは数年前のマラリアが大量発生した時、たいへんな数の患者を出し、その時も同様に治療費の問題があったそうです。
国として未だ医療制度や医療技術の遅れなどの課題を持つ中、さらに震災という惨事が起こり、被災者は十分な治療も受けられないまま、我慢しながら生活を送っている。厳しい暮らしなのだと実感しました。

※1 皮内針治療は、短い針を体に刺したまま絆創膏でとめて治療を行う針治療のひとつ
※2 Yakkum Emergency Unit インドネシア・キリスト教医療奉仕団ヤクムの緊急救援部門

 

 

プルワルジョの村人を守り支える伝統医療

 

プルワルジョの村では伝統療法の話も聞きました。この村の伝統療法士の方は、独学で、村にある生薬などを用いて行う伝統療法を学び、針治療とあわせて治療を行っています。薬の原材料には2種類の生姜やウコンを使っています。このような伝統療法を用いるようになったきっかけは、伝統療法士の奥さまの腎臓治療を行うためだったそうです。
他にも関節炎や高血圧などにも使用し、最近ではマラリア対策としても多く使用されています。
実はこのプルワルジョの村はマラリアの危険地区ともいわれ、今までに多くの人がマラリアで命を落としました。特に2002年と1955年にはマラリアの大流行があり、およそ1家族に1人はマラリアにかかってしまうほどの被害がありました。
そのとき病院では高くて治療を受けられない人や、家畜のエタワ(ヤギ)を売って治療費に当てる家庭、学校に行くことをやめて働いて治療費に当てる家庭などがあったそうです。

 

マラリアの病院での治療費は1回200万ルピア(約2万円)必要で、とても高額でした(インドネシアの平均給料が3万円以下)。そういった背景から、伝統療法は安価で続けられる治療として、今日この村ではマラリアやそれ以外の治療に至るまで活用されています。資源のたくさんある漢方薬や針治療を上手く活用していると思いました。

 

また、病院や村で行われている皮内針治療も見せていただきました。皮内針治療とは、針が5ミリくらいのとても小さくて細い針をツボに刺しますが、中国針といわれる長い針と違い、皮と肉の間に斜めに差し込みます。この皮内針の長所は、中国針と違い1週間くらい刺したままにできることや、この治療を修得できるようになるまでに日にちがあまりかからない、ということがあります。ツボなどのポイントをおさえ、簡単かつ安く治療でき、痛みや疲労が和らぐのであれば、かなり有効な治療だと思いました。

 

 

インドネシア・カリゲシンの村の小学校を訪ねて

 

イスラム教(ムスリム)の小学校では、インドネシアの独立記念日のお祭りを行っていました。子供たちによる吹奏楽やバトン、大人たちの催し物など、村を挙げて参加し、オランダや日本などの植民地からの独立を祝うムードで大にぎわいでした。

そんな中、教育現場の視察では、カリゲシンという村の小学校(幼稚園含む)で授業を見学させてもらいました。宗教の授業もあり、それは日本の小学校ではあまり見られない光景でしたが、子供たちはみんなカワイイ制服を着ていて、とても気持ちのいい笑顔で迎えてくれました。

子供たちが朝礼をしている様子、整列、国家を歌う様子などは日本の小学校ととても似ており、先生も私が小さいときに怖かった「先生」と同じ印象でした。それに授業もしっかりしていて、朝は7時から、昼までに7時間目まであり驚きました。小学生ながら子供たちは将来“こうなりたい”というものをしっかり持っていて、そのために一生懸命勉強している様子も感じとれ、日本のように何不自由なく生活している子供たちと違い、将来生活に困らないように勉強している気がしました。

この小学校で私たちは、色彩の絵づくりをしました。子供たちが各々の感覚で、いろんな色を作って絵を描いていく様子にとても興味をそそられ、子供たちの自由な発想の中にさまざまな発見がありました。子供たちの楽しげで屈託のない笑顔、完成してうれしそうに見せに来る様は、今回のボランティア研修で一番印象深く心に残っています。

この笑顔、そして一生懸命何かに取り組む時の眼差しをずっと持ち続けてほしいと思いましたし、きずなASISSTの活動を継続していく意味を心から感じました。

 

一方、教育環境という点で問題に思ったのは、教育施設そのものの不足です。このカリゲシンの村には小学校はありますが、村内に中学校や高校はなく、一番近いふもとの学校でも6~7キロ離れており、歩いて2時間以上かかるそうです。そのため下宿する子どもが多く、また費用がたくさんかかるため途中でやめてしまう生徒も多いそうです。学びたくても学べない現実を知り、とても寂しい気持ちになりました。

 

 

インドネシアへの資金援助、その先に見えたもの

 

カリゲシンの村(山間部)でホームステイをしました。そこで交流会をした際に、村人から習慣や環境についていろいろな話を聴きました。

 

特にこの村は町からかなり離れている上に、数少ない交通路となる山道は凸凹が激しい悪環境。10年前に一度、こうした道を舗装したそうですが、継続して修復していく力(資金)がなく、今では破損したまま放置されています。こうした状況によって昔より交通手段が減ったため、町と同じものを作っても運送費がかかり、商品の金額がだいぶ異なるようになってしまったとか。そのため商品が売れず、貧しくなっていったそうです。

 

こうした背景から、話の節々で「資金がないから何もできない。資金の援助が欲しい」と言われました。

 

モノを作るために資金を援助することはできるかもしれません。でも、それを村の人たちが維持していくことができなければ意味がなくなり、だからといってずっと援助し続ければ村は自分たちで何もしなくなってしまうかもしれない。資金援助の仕方を考えると、技術の向上や知恵を出し合えるような仕組みや、学力向上をサポートする必要があると思いました。
災害直後のことだけを考えて援助し、援助されるのではなく、将来的に自立できるように考えて行わないと、本当の意味での災害からの復興は難しいのだなと感じました。

 

今回、インドネシアのボランティア研修に参加させていただき、本当に多くのことを学びました。

 

現地の建物の耐久構造は弱く、一瞬ですべてが崩れてしまうただのレンガ造りの家。
とはいえ、費用や設備、技術の面でレンガの家しかできない現実。
疑問を残す行政の援助金の使い道や支給の仕方。
医療費に対する人々の困難。
そして、教育を受けたくても受けられない子供たち。

 

逆に、過酷な状況だからこそ、生まれ、強まるものがあることを知りました。

 

村の中の強いつながり。
村同士の助け合い。
行政を頼らず、自分たちでやっていこうという村人たちの前向きで明るい気持ち。
信仰心を大切にする気持ち。
自分たちの力で地域医療に取り組む姿勢。 など

 

自分の目で見て、耳で聞き、そして体験したことによって、考えさせられることもたくさんありました。

 

会社の資金援助が、AHIを通じて活用されている現場の様子や指導していく人を作っている様子を見ることができてよかったと思いました。ただ募金するのではなく、改めて無駄のない資金援助をしていく必要性を考えさせられたのと同時に、今回学んだことを社外・社内の人たち伝えていくことが自分の役目だと思っています

 

 

ジャワ島中部地震の被災地視察、もうひとりの視点から

 

2006年5月27日に発生した、ジョグジャカルタ南西約25kmを震源とするジャワ島中部地震。マグニチュード6.3の地震で、約155,000戸の家屋が倒壊し、5,000人以上もの死者を出しました。

 

それから2ヶ月半経った被災地を視察訪問し、目の当たりにする悲惨な光景に私は言葉を失いました。被災地の状況は新聞やテレビでの報道などで目にしていましたが、現地の状況は想像を越えるものでした。屋根はなく、壁は崩れ落ち、辺り一面ガレキの山となった家に、被災者の家族たちは生活していたのです。

 

地震の強さは阪神・淡路大震災の30分の1ほどといわれていますが、死傷者の数などは同じくらいの被害を受けています。原因としては日本の2倍近い人口の多さ、その人口の60%がジャワ島を占めていることも考えられますが、直接視察してわかったことは、レンガ造りの家が多く、地震に極めて弱い構造の建物が多いということ。私は建築技術の遅れを感じるとともに、技術・能力の提供が必要だと感じました。

 

また、幹線道路から遠く離れたこの農村部は、政府からの支援物資や支援金が十分に行き届かず、マスメディアによる報道もないため海外からの援助物資も少ない。また、政府の役人と血縁関係にある地区には物資が支給されたり、幹線道路から遠く離れた農村部には支給されなかったり・・・・・・。このように政府や諸外国からの救援物資・支援金の配給にはバラツキがみられました。それが被災者の話からわかった現実です。しかし、彼らは笑いながら私たちに言いました。

 

「政府の援助などもう当てにしてないよ」と。

 

NGOの研修で東洋医学を学んだ村人が、復旧作業で疲れた仲間を治療したり、移動可能な簡素なテントの治療所は治療の場としてだけでなく、多くの村人たちのコミュニケーションの場になっていたりしました。
村人たちがお互いに協力し助け合って生活している姿を見たとき、村人たちの連帯感、人と人との強い絆に感動を覚えるとともに、体だけでなく、心の健康の大切さを実感しました。そして村の人たち自身による健康を守る活動に対して、私たちの支援の必要性を再認識しました。

 

ボランティアとしてお金を寄付することも大事ですが、そのお金が実際、どこまで行き届いているのか把握することも大事だと思います。そういった意味では、私たち社員が直接現地を訪問して指導者を育成する活動に参加することは、農村部といった末端まで知識や技術を広めることができ、非常に価値のあることだと感じています。

 

 

医療と教育の現場で感じた、お金じゃない支援の必要

 

被災地のひとつ、バンクル県ではYEU※1というインドネシアの大きなNGOが支援を行っていました。被災者の健康管理のほか、主に乳幼児、妊婦、高齢者の家庭訪問を行っているとのことでした。
疾患の多くは、ホコリによる上気管炎、高血圧、ストレス性胃炎のほか、骨折・打撲などの外傷です。ベッド数63に対して患者数57人とベッドの数は足りており、一見、設備面も充実している様子でしたが、ドクターから車イスは職員の手づくりだと聞いて驚きました。日本と比べると、設備面の遅れを感じました。

 

グヌアスという被災地では、村人たちによる救援活動が行われていました。移動可能な簡素なテントの中で、地震によって負傷した人たちを針治療やマッサージをして治療する現場を視察。そこで治療にあたっていたのは、牧師から針治療の技術を学んだ地元の人たちでした。牧師はAHIの東洋医学研修で皮内針の研修を受講後、独自の方法で針をつくり、それを身近な人たちから徐々に広め、現在では100名以上の村人が皮内針治療を行えるようになったそうです。現地の人たち自身が意識し、健康増進に取り組んでいくことは何よりも大事だと感じると同時に、私たちの支援の必要性を再確認しました。

 

また、ムスリム地区(イスラム教徒)の小学校で、独立記念日の式典に参加しました。国旗掲揚から朝礼の流れ、整列の仕方などは日本の小学校と驚くほど類似しており、自分にとっては意外な発見でした。
教育に対しては非常に熱心で、朝は7時から授業。さらに8時限目までみっちりある充実したカリキュラムで、教員の意識の高さ、子供たちの強い向上心を感じました。

 

さらに、カリゲシンという山村にある小学校では、私たちが日本から持って行った水彩絵の具を使って絵づくりをしました。自由な発想で色をつくり、絵を描く子供たちの顔はとても無邪気で、色彩感覚には高い才能を感じました。この才能を伸ばす支援ができればと心から思いました。

 

この村には小学校しかなく、中学校・高等学校は麓の町にしかないとのことでした。しかし、そこに通うためには6kmの道のりがあり、道路は細く舗装されていないため、通学に2時間もかかってしまう。そのため生徒たちは学校の近くに泊まって通学することもあり、余計に教育費もかかるという悪循環なのです。
何でも10年前まで、道路はキレイに舗装されていたそうですが、維持する資金が底をつき、荒れたままになっているのだとか。こうした背景から、資金援助を望む声も多くありました。そしてここでも、村の人たち自身でできる道路づくりの知恵や技術の必要性を感じました。

 

支援活動で最も大事なことは資金を提供することではなく、現地の人が自分たちの力で復興を押し進めていけるようサポートすること。つまり、“継続”を支援できる知識や技術を提供していくことが何より大切だと実感しました

※1 Yakkum Emergency Unit インドネシア・キリスト教医療奉仕団ヤクムの緊急救援部門

 

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