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ベトナム・レポート 2008年8月16日〜8月25日

宮崎貴大

ホーチミンで出会ったストリートチルドレンの子供たち

物乞いをするストリートチルドレンたち、その素顔は無邪気な子ども。
目にしたのは、子供たちの未来をおびやかす、“貧困”という苛酷な現実。

 

〈1日目〉
セントレア空港を出発し、タイペイ経由でホーチミン入りしました。空港からホテルに向かう車内で初めに感じたのは交通量の多さで、バイクや車がものすごくたくさん走っており、信号がほとんど見当たらない。通訳の方に尋ねると「交通事故は日常茶飯事ですよ」と言われました。
実際、ホテルに到着して市場や街を散策する際、道路を横断しようにも、信号などもほとんど無くて困りました。片側何車線かもわからないぐらい横切る車やバイクの中をぶつかりそうになりながら、少しずつ歩いては止まり、歩いては止まり、を繰り返し渡っていく感じで、いつ車やバイクに撥ねられてもおかしくない状況でした。

街並みだけを見れば、立派な建物や歴史的建造物、日本の企業のビル等が建ち並び、以前訪れたことのあるタイにも似た感じで、私の持つ途上国のイメージとはかけ離れたものにも思えます。しかし、実際に地に足をつけてみるとそこはやはり、都会の中心地にも関わらず、交通整理にすら十分にお金をかけることができずにいるといった現実が垣間見えました。

また、夕食を食べた帰り、ホテルの入り口で、見たところまだ6才にも満たない子どもが2~3人物乞いで寄って来たことにショックを受けました。同行したある学生がお金を差し出そうとしたところ、ガイドの方が「絶対お金を渡してはいけない」と止めに入りました。

「この子たちにお金を渡してしまったら、明日はよりたくさんの物乞いが、あなたたちの元へやって来ます。その人たちにもお金を渡しますか?ここは日本ではない、ベトナムなのです、当たり前の光景だ」と言われました。

冷たい言い方にも聞こえましたが、ガイドの方の日本人に対する心遣いだったのだと思います。しかし、私はどうしてもその子供たちが気になり、社内同行者の太田とともに、小学校訪問の際に使用する予定で持ってきたバドミントンのラケットを持って子供たちのところへ行き、「バドミントンをしよう」と誘ってみました。

すると、初めは少し警戒していた表情でしたが、時間が経つにつれ心を開いてくれた様子で、先ほどホテルで見た表情からは想像もできないくらい、無邪気な笑顔を見せてくれました。お互い言葉が通じないないので、絵や動作だけで会話をしていくなかで、その子供たちは帰る家も施設も家族さえもない、俗にいう“ストリートチルドレン”でした。

日々の生計は宝くじの券を売り歩いたり、物乞いをすることで立てているということでした。自分の幼少の頃をどれだけ思い起こしてもそういう日常は想像できません。子どもは遊びが仕事であり、必ず誰かに守られなければ生きていけない、というのが私の常識ですが、ここでは街を歩けばこうした子供たちが未だ目に付きます。

先進国と発展途上国の差は、同じみなしごでも環境が全く違うのです。その子供たちは、私と太田に対して物を乞うといった様子を一切見せませんでした。逆に、女の子は道に生えていた花を私にくれ、男の子はバドミントンの最中に壊れてしまった私のサンダルを必死に直してくれました。別れ際にバドミントンのラケットとシャトルを子供たちにあげようとすると、申し訳ないといった様子で遠慮してきました。気にしないでいいと渡すと、男の子がなんと土下座をしてきました。本当にとてつもなく胸が痛くなりました。

この子たちのような子供たちがベトナムでは未だ多く存在しているという現実を肌で感じると共に、子供たちに何もしてあげれない悔しさ、また、こういう子供たちが数多く存在しているという環境で今、私たちができることは何があるのか、深く考えさせられる1日でした。

〈2日目〉
2日目はクチトンネルの見学でした。クチトンネルとは、ホーチミン市から40km北西のクチにある、全長200kmの地下トンネルネットワークのことで、ベトナム戦争中に南ベトナム解放民族戦線によって森の中に作られた、いわば戦闘用のトンネルです。

トンネルは一本だけではなく、何層にもわたって掘られていて、一番上の層のトンネルは地上から2~4m下にあり、100kg爆弾にも耐えられるように設計されていました。その中に、炊事場、病院、作戦会議室、寝室などの施設もつくられています。現在は観光客用として、入り口をつくり整備されていますが、その当時、実際の入り口は、ベトナム人と比較しても体格のよいアメリカ軍の兵士では通れなかっと思われるぐらい狭く、入り口も普段はフタで閉じているらしく、見つけることも非常に困難だったそうです。万が一、侵入されても、トンネル内は中腰にならないと通れないほど狭く、また近くの川やホーチミン市内にまで続くトンネルですので、捕らえられることもない、といったベトナム人の知恵と工夫が見える施設でした。実際当時、アメリカ軍はベトナム人に苦戦し、枯葉剤を使用するにまで至ったとのことです。

 

 

過酷なマングローブの植林活動を体験して感じたこと

無くすのは簡単、取り戻すのは何十年、何百年を要する現実。
エコ活動という言葉を頻繁に目や耳する今日、
どれだけの人が、ことの重大さを感じているのだろうか?

 

〈三日目〉 朝、ベトナムの学生と合流しホーチミンのはずれにあるカンザーへ移動しました。その道中、森林組合の事務所に立ち寄り、マングローブについて学習しました。 ベトナム戦争で、アメリカ軍がばら蒔いた枯葉剤のことや、マングローブ林が地域住民にとって、どのような影響を及ぼしてくれているか。例えば、マングローブ林が復興してきたことで台風被害が減少したこと、またマングローブ林に魚介類が集まり漁業で生計が立てられるようになったこと等でした。日本でインターネット等で自分なりにマングローブ林について調べてはいたのですが、現地の人々の声を聞くことで、翌日から行われる植樹に対しての思いが強くなったことを覚えています。

〈四日目〉 いよいよ今回の海外研修メイン活動であるマングローブ植林。初日、カンザーの民宿から、車で未舗装の道路を1時間かけて移動して港へ到着。そこからボートで30分かけて植樹ポイントを目指しました。ボートの中で地下足袋を履き、ボートを岸に着け、さらにそこから、雨によってぬかるみ、場所によっては太ももまで埋まるといった、泥の川のような道を、ニッパヤシを掻き分けながら20分ぐらい進むと、ようやく植樹ポイントに到着しました。

この時、私の班が植林ポイントまで飲用水を運ぶ係ということで、21L=20kgの水のボトルを担いで行ったこともあり、正直言って、想像以上の過酷さに泣き言を漏らしそうになりました。

〈五日目〉 この日は、マングローブ植林活動2日目だったのですが、初日に続き、植えるといった作業には至らず、「ニッパヤシ」というマングローブの成長を妨げる木をひたすら切り続ける作業でした。 この時ニッパヤシの葉に赤いアリがたくさんいて、長袖、長ズボンを着用していても服の中に入ってきて、噛まれたことを記憶しています。

〈六日目〉 マングローブ植林最終日、この日は2日間かけおよそ1ヘクタールニッパヤシを切り終えたところに、ようやく念願の植樹作業、この時、ニッパヤシが切られたことで辺りが見渡せるようになり、ポツリ、ポツリ、ところどころに以前植えられた、マングローブを目にすることができました。 身の丈2mぐらいのものもあれば、1mにも満たないものもあり、引率の森林組合の方に植樹した時期が違うのだろうと思い質問したところ、植樹した時期は同時期だと言われました。マングローブとは、亜熱帯から熱帯地方の感潮域の上部に生育する植物の総称で、その種類は100種類以上あるとのことで、時期ではなく、種類が違うために、成長に差があるということでした。

大きなスコップで、5m間隔に穴を掘り1ヘクタールに約400本の苗木を植林しました。自分の手で植えたマングローブが、5年後、10年後と成長を遂げ、この森の復興の一端を担うのかと思うと、1本でも多く植樹をしたいという感情が込み上げてきました。作業は本当に過酷でしたが、達成感で満たされました。

総勢51名による三日間かけての植樹活動、その内容は過酷でも、結果的には約1ヘクタールしか植樹できませんでした。無くすのは、簡単、しかし、取り戻すのには、何十年、何百年という歳月を要することの重大さを肌で感じました。

今日、日本でもエコ活動という言葉を頻繁に目や耳にしますが、どれだけの人が、ことの重大さを感じているのだろうか?

私自身、環境破壊、環境問題という言葉を耳にしても、どこか他人事のように捉えていたように思います。ベトナムのことわざで「マングローブを失えば、すべてを失う」というぐらい、生きていく上で必要不可欠なマングローブを1度は失い、それを再び復興させようと懸命になっている人たちと共に活動することで、自然の偉大なる重要性を身をもって体感することができたと思います。

マングローブの植林活動を通して得た知識や、現状の様子、自分が感じたことを1人でもより多くの方に伝えることが、今の自分がやるべきことであると強く感じました。また、心底自然を大切に思う人が増えることが、地球全体のエコに通じていくのだと思いました。

 

 

ベトナムでのボランティア研修を通して得た宝もの

ボランティア活動を通して改めて実感した“モノの有り難み”と“感謝の心”。
それは生きていく上で、無くしてはならないかけがえのないもの。

 

〈七日目〉
この日は、Tan Thon Hiep 小学校を訪問しました。この学校の生徒は、半分は孤児、残りの半分は、家族はいても家から学校までの距離が遠くて通えないため、住み込みで来ている子供たちでした。しかし、そんなことは微塵も感じさせないほど元気で、笑顔がとても輝いてる子供たちでした。

一緒にサッカーをしたり、また、カレーを作って一緒に食べたりと、短い時間ではありましたが、逆に子供たちから、元気をもらった貴重な時間でした。

こういう生徒たちが多い背景には、お金がなく、育てたくても育て切れないといった貧困の状況や、明らかに学校の数が少ないという要因があります。こういった状況が少しでも改善され、ベトナムの近い将来、子供たちが孤児にならなくていい環境になっていってほしいと、強く願います。

〈八日目〉
行動を共にしたベトナム学生との別れの日、これまでの数日間、生活を共にする中で様々なベトナムの文化、またベトナムの学生の考え方について知ることができました。あるベトナムの学生に「何故、日本語を勉強したいと思ったの?」と質問したところ、こういう答えが返ってきました。

「私の家は非常に貧しいので、私が日本に行き家族に仕送りしたい、少しでも楽させてあげたい」

いつも明るく元気に振るまっている彼にも、『貧困』の2文字がつきまとっていました。ベトナムでの大卒者の初任給の平均が約200ドルだそうです。日本の約10分の1ほどしかありません。

戦後日本は急速に高度成長し、先進国として大国にも引けをとらないほどに富を得たと思います。しかし、昔と比べてかけがえのないものを失ってきたようにも思えてなりません。 ニュースや新聞を見ても、入ってくる情報は悪いニュースばかり。24時間、いつでも欲しいものがあれば、ある程度のものなら何でも簡単に手に入る世の中、モノの有り難みや感謝の心といった無くしてはならない大切なものを失ってきたのではないでしょうか。我々日本人が見直すべきは、発展途上国にあるのではなかろうかと痛感しました。

私はこのボランティア研修に参加することで、私がお手伝いさせて頂いたこと以上に、得たものの方が遥かに大きかったと思います。自分が得たものを少しでも多くの人たちに伝えながら、また自分のこれから先の人生の財産として一生懸命生きていきたいと思います。ボランティア研修に参加させて頂き、本当にありがとうございました。

 

 

初めて知った「ベトナム」という国の本当の姿

物乞いをする大人や子ども。そして、縦横無尽に走るバイク。
日本では考えられない劣悪な生活環境、それがベトナムという国でした。

 

今回、ベトナムでのボランティア活動に参加するという、とても貴重な機会をいただきました。今までこういったボランティア活動をしたことがなかったので、初めは戸惑いがありました。しかし、スタッフの方、宮崎所長、日本の学生、ベトナムの学生、現地の方々、まわりの人たちにとても助けられ、無事活動を終えることができました。この活動に参加する前に、アンケートでベトナムの印象は?という質問があり、私のベトナムに対する印象は食べ物がおいしい、アオザイ、暑い、という安易なものでした。

しかし、実際にベトナムに行き、10日間現地で生活をし、いろいろな体験をしてその印象も変わりました。ベトナムの人々の厳しい生活状況、目を背けたくなる子供たちの状況、未だベトナム戦争の影響で苦しんでる人々、そんな中でもたくましく生きているベトナムの人たち。日本で何不自由なく生きている私は、とても衝撃を受けました。町の至るところで物乞いをする大人や子どもがたくさんいました。

現地の人が言うには、やたらにお金をあげたり、物を買ってはダメということでした。そんな人たちを見かけるたび、断るたびに心が痛む思いでした。しかし、それがベトナムという国なのです。

ベトナムはとてもバイクの交通量が多い国で、慣れない私たちが道を渡るのは、とても恐かったです。信号もほとんどない状態で、車やバイクのクラクションが常に町の至るところで響いています。そのため事故も多いとベトナムの学生から聞きました。

市場ではドリアンのきつい匂いが印象的でした。ベトナムでは一般的な「チェー」という飲み物を飲みましたが、これもまた印象的な見た目と味でした。ベトナム料理は私の好みの味で、特に「フォー」はとてもおいしかったです。この「フォー」は朝ごはん、昼ごはん、夜ごはんと一番食べた気がします。

いよいよ、ベトナム4日目、この活動の一番の目的であるマングローブの植林。それはとても過酷なものでした。

ホーチミンから、カンザーの宿舎へ移動しました。ホーチミンではホテルでしたが、カンザーの宿舎は合宿場のような感じで、私はベトナムの学生の子と2人部屋でした。イモリ、カエルが当然のように部屋にいたり、シャワーは水だったりと、日本では考えられない状況でしたが、意外とぐっすり寝ることができました。それだけ疲れていたのかもしれません。

3日間の植林のうち、初めの2日間は、ニッパヤシという木を切る作業でした。朝、6時に起床し、7時に現地に出発。虫よけグッズ、日焼け止め、ポカリの粉、虫対策、熱中症対策は万全です。宿舎から、バスででこぼこ道を揺られ、漁港からまた小さな船に乗り換えて、マングローブが植えられている場所まで行きます。雨期のせいで湿度は高く、何をしてなくても汗が出てきます。

船から降りて、その場所まで行く道のりがまた大変なものでした。土はぬかるみ、足がズボっと奥まで入り、何度か学生の子にひっぱってもらい助けられました。初めは地下足袋にどろが入るのを気にして歩いていましたが、すぐにそんなの気にしてられなくなりました。そんな険しい道のりを、水、ノコギリ、簡易トイレなどを持って歩いていく人達は相当なものだったと思います。

 

 

マングローブの植樹活動で改めて気づいた自然への思い

自然の再生の難しさを体で思い知らされた植樹体験。
だからこそ、植え続けるマングローブがずっと元気に育ちますように。

 

やっとの思いで現場に着き、早速、ベトナムの学生と協力しながら木を切る作業を始めました。ニッパヤシがたくさん生えてしまうと、せっかく植えたマングローブに太陽が当たらず、枯れてしまうのです。そのため、まずはそのニッパヤシを片っぱしからノコギリで切り落としていきました。

ただでさえ、暑い中の作業はとても大変でしたが、みんなで交代しながら大丈夫?と声をかけ合い、協力してする作業に、いつの間にかとても気持ちが満ちてくるような感じがました。

作業の合間にとる休憩で、水に溶かしたポカリスエットを飲んだ時、本当に心からおいしく思いました。いつもは当たり前のように、冷えている飲み物を飲んでいる私にとって、とても貴重な感覚でした。熱中症の予防で、みんなで塩をまわしてなめたり、体調管理もとても気をつけ作業しました。雨期の時期で天候は変わりやすく、日中は天気もよく太陽がギラギラしていたのに、船で帰る頃、いきなりスコールが降ってきたりしました。

宿舎に戻る頃には、もうへとへとです。

それから、泥だらけになった軍足、地下足袋、上着とズボンを手洗いしました。この洗たくという作業もなかなか大変でした。普段は洗たく機に洗たく物を放り込み、洗剤を入れ、ボタンを押すだけで洗たくができてしまいます。ここカンザーではバケツに洗たく物を入れ、足で踏み、泥を落としていくのですが、バケツの茶色い水がいくら洗ってもなかなか透明の水にならず大変でした。洗たく物を絞る度に、手のひらが痛みました。そんな風に一生懸命洗った洗たく物を外に干すと突然のスコールでぬれてしまったり、部屋に干しても湿度が高いせいか、なかなか乾きません。結構、悩まされました。

夜に浴びる水シャワーもなかなかハードでした。しかし、疲れきった後でみんなで食べる夕食は、また格別でした。そうやって2日間、ニッパヤシ、虫、太陽、スコール、洗たくと格闘し、3日目にしてようやく植樹をしました。

私は植樹の最終日、今までに植えたマングローブの調査をしました。南遊の会ではこのような活動を2001年からやっているそうです。3年~4年で170・くらいのマングローブが育ちます。実際に自分の背と比べてみました。まだ幹は細いけど、ベトナムの地に力強く生きていました。私たちが植えたマングローブも3年後には、やがて私と同じくらいに伸び、そしてもっともっと大きく伸びていくのです。

ベトナム戦争の時、マングローブは人の手によって簡単に死んでしまいました。一瞬で枯れてしまったのです。それをまた人の手で大切に大切に植えていく。とても大変な作業です。一度死んでしまった自然をまた再生することが、こんなにも大変なことなんだと思い知らされました。

戦争の爪あとは、こうして何年も残ります。それは当然人間もそうなのです。ホーチミンの戦災博物館に行った時、それを知りました。ベトナム戦争の枯れ葉剤の影響で体が不自由な子の写真、当時ケガをおった人の写真、それは見るに耐えないものばかりでした。戦争はどんな理由であれ、いいことは一つもないと思いました。そして、もう二度とこんなことがあってはいけないと心から強く思いました。

調査をしていて、人の手で植えられたマングローブの木から実が落ちて、そこからまた小さな命がすくすく育っているのを見て、とてもうれしく思いました。今まで植えたマングローブ、私たちが植えたマングローブ、そしてこれから植え続けるマングローブが、元気に育ってほしいと心から願います。

 

 

ベトナムでの活動を通して生まれた新しいきずな

自然を大切にする心、強く生きる姿勢、そして他人への思いやり。
苦境でも笑顔を絶やさないベトナムの子供たちや、
前向きな学生たちから、改めて人として大切なものを学びました。

 

マングローブの植林を終えた翌日、カンザーの小学校へ行きました。その小学校の子供たちは、親のいない子や、家が遠いため学校に泊まっている子がほとんどでした。そんな状況の中でも、子供たちはとても無邪気な笑顔で目をキラキラさせていました。子供たちと遊んでいるうちに、逆にこっちが元気をもらったように思います。

日本のカレーを作って子供たちと一緒に食べたカレーはとてもおいしく、おいしそうに食べている子供たちを見てうれしくもなりました。たった数時間を一緒に過ごしただけでしたが、別れはとても名残おしかったです。この子供たちが大人になる頃には、ベトナムの状況ももっと良くなってほしいと思いました。

こうして7日目が終わりました。初めはどうなることか不安で、10日間はさぞ長いだろうと思っていましたが、後半になるにつれ、とても早く感じると同時に、みんなとの別れを思うと寂しくなりました。それだけ充実したものになっていたのです。

ベトナムの学生と討論会もしました。班ごとに、国際結婚についてお互いどう思っているかを話し合いました。双方に出た意見は、愛があれば問題ないとか、でも現実的に考えるとそこには文化の違い、生活習慣の違いという大きな壁もありました。

国の異なる子たちと、こういった一つの問題についてお互いの意見を出し合って話し合うことができ、とても良い経験になりました。話し合って分かったことは、互いに自分の国を愛してるということでした。自分の生まれた土地、家族、友達、恋人を大切に思う気持ちは、万国共通なんだと思います。お互いに自分の国の踊りを披露したり、とても有意義に過ごすことができました。ベトナムの学生の子たちとも、6日間一緒に過ごしたことできずなが深まりました。

最後に私たちが日本に帰る時、ベトナムの学生の子が空港までわざわざ見送りに来てくれた時には、うれしくて涙が止まりませんでした。ベトナムの学生はみんなとてもやさしくしてくれ、私はそのやさしさに何度も心を打たれました。

この活動を通し、新しいきずなが生まれたことをとても感謝します。日本に帰ってからも、ベトナムの学生と連絡を取り合っています。私にとって大きな大きな財産になりました。自然を大切にする気持ち、強く生きる姿勢、人にやさしくすること、当たり前のことですが、それを真の当たりにして改めて学ぶことができました。

ベトナムの学生の子たちの何事にも一生懸命な姿を見て、私もそうでなければいけないと思いました。そしてこの経験で得たものを大切にし、生きていきたいと思います。今よりもっと人とのつながり、信頼関係を大切にしていきます。

これからこの貴重な体験をより多くの人に伝えていき、今、自分にできることを一つでも多くやっていきたいと思います。最後に、このような貴重な体験をさせていただき、本当にありがとうございました。

 

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