088: 言葉は使い方で毒にも薬にも

2013.06.10

著書「心のしずく」より

※著書「心のしずく」より ~アーカイブ100回連載シリーズ~
※この記事は、平成八年~平成十六年にかけて執筆されたものです。

 肝胆相照らすがごとく何でも言い合える友、心の底から打ち明けられる友がもてたらどんなに心強いことか。お互いに厚い信頼の絆で結ばれ、時には叱ってもらったり、励ましてもらったり、教えてもらったりで良き相談相手がもてたなら、何と人生にうるおいと安らぎができることか。
 そういう親友、畏友、師友が一人でももてたら、人生のかけがえのない宝ものであり、これに過ぎる幸福はない。不幸にも、もしそういう友が一人もいないとしたらいかにも寂しい人生だ。
 友がつくれるか否かは相手がどうのこうのというより、ひとえに自分自身のあり様にかかっている。友を求めるとき果たして自分がそれに足りうる人間かどうかが問題である。そのことをしっかりと自省しておくことだ。
 そこで勘違いをしてはならないことがある。
 何でも言い合えるというのは、逆に言えばこれだけは絶対に口に出してはいけないという言わず語らずの暗黙の聖域がある。しかし常にバカはミソもクソも一緒にしてしまう。
 世の習いとして人生の知恵として、これだけは犯してはならない。おおよそ次のような不文律みたいなものがある。
 他人に触れられたくないプライバシーに関すること、よその家庭や家族に関わること、身体に関わること、相手の友人にまで及ぶ悪口雑言、宗教宗派に関すること、土足で人心を踏みにじるようなこと等々が挙げられる。よくあることだが忌憚のない意見をどうぞと言われても本音と建て前があるので、決して真に受けてはならない。よく相手の状況と自分の立場を見極めなければならない。
 人それぞれ生き方考え方は様々なので、言い合えるというのはその前にお互いに尊重する気持ちが通じ合っているか否かが大事である。
 信頼を得ていないのに直言忠言しようものなら、かえって相手の心証を害して思わぬ反発を食らうことになる。親。兄弟、親友と言えども「のり」を決して越えてはならない。あらゆる人間関係は例外なく親しき仲にも礼儀ありなのだ。どうしようもないバカは前後の事訳や自分の立場を弁えず、不埒にして不遜な態度でその垣根を越して相手の庭に不法侵入してしまう。覆水盆に返らず、後の祭りで取り返しのつかない禍根と怨恨を残すことになる。
 あの一言だけ断じて許せないということがある。その放言失言は関係を修復するのに多大な時間とエネルギーを要する。飲み会などで本席は無礼講だと言われて図に乗ろうものなら、後から手痛いしっぺ返しを食らうことと全く同じことだ。バカとハサミは使いよう、言葉は使い方ひとつで毒にも薬にもなる。

平成十五年七月三十一日