052: 見ることは見られること

2011.12.10

著書「心のしずく」より

※著書「心のしずく」より ~アーカイブ100回連載シリーズ~
※この記事は、平成八年~平成十六年にかけて執筆されたものです。

 人の評価ほど難しいものはない。人の大小は見る人の大小によって変わる。サイコロは一から六の目まで六面あるが、見る角度によっては一面か、せいぜい三面までしか見えない。サイコロを初めて見る人にとっては他の見えない面の数字は皆目見当がつかない。
 サイコロでさえもそうであるから、より多面体の人間はなおさらのことだ。「群盲象を評す」のように、自分の知っていることだけで、全体をつかんだつもりになる、愚かなやからがいかに多いことか。断片的な情報知識でもって人を評すこと、口にすることは、非常に危険なことだし、立場によっては他人に及ぼす影響を考えると空恐ろしいことだ。軽率な言動は他人のみならず自分をもダメにしてしまう。
 やはり、現場にて自分の目で確かめ、片寄ることなく、周りの人の話に耳をかたむけてこそ、真実に近い判断ができる。ただし、その判断力は信頼度や熟知度、そして何よりも見識の高低によって異なる。どこにでもある話だが、職場の風通しがよくない、雰囲気が悪い等々あれがいかん、これがいかんと言う人がいるが、職場にてよくよく調べてみると、とんでもない話で、それを言う当人が諸悪の根源だ。
 有言より無言のほうが、有弁より沈黙のほうが怖い。浅い川はペチャペチャとうるさくてやかましい音を立てるが、深い川は黙して語らずだ。ほんとうに苦労した人は、くろうのくの字も言わない。それどころか、まだまだ足りないと言う。たいした苦労もしてない奴ほど大げさに誇張する。ほんとうの手柄をたてた人は静かだ。たいして手柄をたてない奴ほどやかましい。人間の重さ、軽さはこのように違う。
 時には相談をかけられたら、のってあげることも大事だが、むしろ相談してくる人よりも、相談してこない人こそ日頃より注意して心を砕かねばなるまい。口は災いのもとだし、口上手には気を付けよう。世間には相当の人でさえも口車にのせられて、後で取り返しのつかないことがある、
 また話半分という言葉があるが、十人十色、人を見て話半分の半分、そのまた半分にして聞き、判断することが肝要だ。事が上手くいかなかったからと言って、言い手のせいにするのではなくて、聞き手の自分がうかつだったと考えなければ進歩はない。
 よくよく人を見る目を養っておこう。片寄って見れば、(また)片寄って見られる。見るということは(同時に)見られていることだ。

平成十二年六月三十日