思うままに No.243
2016.02.29
※エッセー「思うままに」より ~毎月更新~
人は万物の霊長というが学習能力では、動物よりかなり劣るのではないか。動物は学習をすると同じ失敗をしないよう生存本能が働くようだ。
生きるか死ぬかの弱肉強食の世界にあってひとつ判断を過つと命とりになるからであろう。えさを摂取する至福のときほど襲われないように油断大敵を心懸け周りに全神経を注いで警戒を怠らない。人間とは比べものにならない危機管理をする。さぞかし動物は<のどもとを過ぎれば熱さを忘れる>の人の愚行を見ては、失敗をくり返す性懲りの無さを嘲笑っていることであろう。
さて洪水のごとく溢れ流れる情報社会では、ひと昔前と比べるとすさまじいほどの量が故に、何が正しいのかの判断を惑わす。特に自分の都合のいい、耳ざわりのいい偏った情報はほんとうのことを見えにくくする。情報はその発信する相手の人となりをよくみて吟味し、その真偽を確かめ、最後には自分の判断になる。その正否の判断のもとは知識レベルではなく見識のレベルになる。この見識を高めていくのが学習や経験だ。
「知る」と「分る」はまったく意味が違う。「知る」は頭で理解することだが「分る」は体で覚える。頭で理解したことはいずれは消えるが、体で覚えたことは痛い目に合うほど骨の髄まで染みわたり死ぬまで忘れない。知識は知恵をつくるための要件には違いないが知恵そのものではない。知識に学習や経験を加え、知恵としてこそ教訓として「分る」になる。これが見識を培っていく。
ところで古来より親の言う助言、辛言には間違いがない。親身に思うところから突いて出る有り難い言葉だ。そこには無償の愛があるからだ。一方サギ師は常套手段である甘言、巧言を用い、まことしやかな理屈をつけて人を信用させる。そこにはもともと微塵も人の道のかけらもない。通常受ける方は無防備だから、うっかり誘い話をうのみにし、いとも簡単にひねられて犠牲者となる。相手の弱み、望みや不平不満をテコにして巧妙にしかけてくる。
ありもしない、まがい物の志の言を吹聴しては、さも善良面を装い、えせの同情心、親切心を虚飾してだましにかかる。我欲や自惚れの強い人ほど危うい。うまい話には必ず裏がある。軽々に乗らない、相手にしないことが身を守る。それを見抜くには先ず、その人のやってきた様を見れば自ずと答が出る。さもなくば第三者や信頼のおける人の意見によく耳を傾けることだ。一方的な話にはよく斟酌しておかないと過つこと必定だ。
この連中の正体は目的達成のためには手段を選ばず、その場その時限りの使い捨ての物として人を扱う。使い捨てカイロのように一時は温めてくれるが冷めたらポイと捨てる。情けも容赦もなく、後にも先にも責任をとった例はない。
羊の仮面を被った狼は世にはごまんといる。不覚にも喰われないようにくれぐれも用心を。そして日頃より教訓を活かす学習能力が身を助ける。