思うままに No.234
2015.05.31
※エッセー「思うままに」より ~毎月更新~
子供の教育において、古今東西共通して親が子供に言いきかせるもっとも多い言葉は「ウソをつくな」だそうだ。大抵の子供たちの心情は健気にも親を安心させたい、喜ばせたいからそうするようだ。
イソップの寓話に<羊飼いの少年とオオカミ>がある。少年が性こりもなくウソを何度もくり返したせいで周りはまたかと信用せず、最後には少年も羊もオオカミに食べられてしまう哀れな話だ。
これと対照的な話がある。<ジョージ・ワシントンの桜の木>だ。アメリカの建国の祖で後の大統領になったワシントンの少年の時の逸話だ。
ワシントンがようやく手に入れた新しい手斧の切れ味を試してみたくて、お父さんが日頃より大事にしていた桜の木を無残にも切り倒してしまうのだが、後になってこれは大変なことをしてしまったと悔い悩み迷った末に、ひどく叱られるのを覚悟して、自分でやったとお父さんに正直に告白する話だ。
この物語はお父さんのこんな言葉で締めくくられる。
「ジョージよ、おまえがあの桜の木を切り倒してしまったことは残念だが、お父さんは結局はよかったと思っているよ。それはおまえが正直に言ってくれたことが1,000本の桜の木よりももっと価値のあることなのだから」と、このお父さんは大事な桜の木を失うが、このことで、もっと大事な子供にまたとない貴重な価値ある教育ができたことだ。勇気をもって打ち明ける正直がいかに大事なことであるかを説く格好な機会を得たことだった。
さてウソはよくないことに違いはないが、一方で<ウソも方便>という言葉がある。物事を円満に運ぶため、時と場合によってはウソをつかなければならないこともある。また相手が喜ぶウソは許されることもある。
ついていいウソとよくないウソがあるが、そこにはなしくずしにならないための自ずと心のガイドラインがある。そのもとは慮りの良心だ。
また<ウソつきは泥棒の始まり>と言うようにウソをつくのはちょっとしたことでも、それが始まりで高じて平気でウソを言うようになり、ひいては泥棒のような悪事を働いても恥じないようになる。こうなると良心がまひしてしまい大変厄介なことになる。
一時は人をダマせても長くは続くものではない。ウソにウソを重ね続けるのは至難のワザであるし、何よりも自分はダマせないのだ。人をダマした分だけ自分の心に芥がたまり腐る。
そう考えるとウソは苦だが正直は楽だ。心の健康のためにも、苦の多き人生にあって、せめて正直の楽を選ぶほうがずっと賢い。正直こそ生きる上でこれに勝る知恵はない。