086: 言葉は人格
2013.05.10
※著書「心のしずく」より ~アーカイブ100回連載シリーズ~
※この記事は、平成八年~平成十六年にかけて執筆されたものです。
人は転ぶと坂のせいにする。坂が無ければ石のせいにする。石が無ければ靴のせいにする。自分のことは棚に上げて他のせいにする。ああ言えばこう言うで、その種にはこと欠かない。よくもまあしゃあしゃあと、どの顔をひっさげて言うのか、怒りを通り越してあきれかえる。こういう奴にはそういう生き方が長年にわたってアカやシミとなってこびりついていて無意識のうちに言葉がついて出てくるから余計に始末が悪い。
また当人のいないところでけなしておいて、他方では自分のことを自慢する奴ほど見苦しく、聞き苦しいものはない。虫が耳の中に入り込んできてガサガサとやる。こういう歓迎せざる雑音は耳障りで鼻持ちならない不快の極みだ。こういう奴は最も信用のおけない最低の奴だ。仮に出来たとしてもだ、自慢したとたんその価値は消え失せる。
ある人は立場が弱かったり、よく実情をのみこんでいないが故に一応は聞いているふりをしているが腹の中はこのバカはと軽蔑している。またある人はこいつはどれくらい愚か者か計りながら聞いている。
おおよそ自慢する奴は自惚れが強い。自分のみが自分に酔いしれている頓珍漢で、周りの人は大して評価などしていないのだ。虚しくて哀れなことだ。こういう奴に限って先ほどまでの威勢や剣幕はどこへやらで都合の悪い相手には面と向かうと、しっぽを巻いて逃げ出すかあるいは借りてきた猫のように大人しくなるのが通りの相場だ。
おかげさんという感謝や人への配慮などは毛頭ないのだ。「一将功成って万骨枯る」でこういう愚かな上司のもとでは部下はたまったものではない。早晩人心は乱れ、やがて組織は瓦解する。
また「口は災いの門」というが同じ人でも朝晩には見違うほど変わったり、相手によって言うことが変わる、そういう人間の多面的な性状や前後の事情を知りもせず、かたよった情報の早のみこみで浅はかな軽はずみな言動には厳に慎まなければならない。沈思黙考という言葉がある。浅い川はやがて深い川に呑み込まれる。短慮は深慮には到底かなわない。
言葉は人格そのものだ。よくよく考えて使うものだ、加えて人間言っていいことと言ってはいけないことがある、たとえ口が裂けようともだ。バカはそのさじ加減が分からない、ミソもクソも一緒にしてしまう、後でしまったと思ってももう遅い。こう言ったら相手はどう思うか差引の心のソロバン勘定をはじけないようでは処世できない。とりわけ人を口撃したら必ず倍以上のしっぺ返しが自分にくることを覚悟しておけ。人間関係はたったの一言ですべておしまいになることがある。肝に銘じておけ。親子、兄弟、友人はもとよりだ。
実情をよく知り、人をよく見、自分をよくわきまえて使う言葉こそ信頼を得る第一歩になる。
平成十五年五月三十一日