068: 自分を第三者で観る

2012.08.10

著書「心のしずく」より

※著書「心のしずく」より ~アーカイブ100回連載シリーズ~
※この記事は、平成八年~平成十六年にかけて執筆されたものです。

 おおよそ人間はとかく他人には辛いが、自分には甘いものだ。
 他人からもらう評価は自分の思っている点数の二分の一か三分の一程度低くしていい加減だ。反対に自分のする評価はひいきの引き倒しで二倍か三倍高く点数をつけたがるものだ。
 そもそも主観と客観は現実には当然違うということを認識しておいたほうがいい、そうでないとこの差異に空しさや悔しさが生じる。このとき、自らを省みず、感情に走ったり、分をわきまえない言動に至ればことを過つ。
 だからこの差異を少なくするには、できる限り冷静沈着に自分を第三者の目で観るように努め、時によっては信頼のおける人からの助言、直言を求めることも必要だ。ただここで信頼のおける人がいるというのは、先ず日頃より自分が他人に信頼に足りる人であるかどうかが前提だ。
 もっとも極上人間になると、人に評価されようが、されまいが気にしないものだ、それは評価されることに目的をおかず、自分の良心と信念に従って、自己啓発を続け、自分の役割や自分の道を極めることに専心するからだ。
 また他人が自分を理解してくれないといって嘆いたりするが、そんなことよりも自分のほうが果たして他人を理解しているかどうか、そのことを心配すべきだ。他人に好かれたかったら、先ず自分のほうから好かなければ、他人に好かれることもないと思うべきだ。
 自分のことを棚に上げておいて、働きかけもせず、受身の姿勢でことが上手くいくと思ったら大間違いだ。また感謝についても、その時には涙が出るほどに有り難い気持ちをもつのだが、時とともにやがてその念は色あせ消え失せる。
 ひどいやつになると、してもらうことが当たり前だと思い込み、挙句の果てには、あれが足りない、これが少ないと文句たらたらで際限なしだ。こういうやつは知も情のかけらもなく、心が腐り切っているから、いっぺん暗やみのどん底へでも突き落とすか、相当の切開手術でも施さないと追いつかない。
 いかなる時も、人として井戸を掘ってくれた人を死んでも忘れてはいかん。そうでないとしてくれた人にではなくて、してもらった自分のほうが人として立たなくなることを、さらに孫の代まで及ぶことを覚悟すべきだ。
 日常、目を凝らせば、至る所に反面教師をはじめその題材が転がっている。
 心掛けよう、人を観る前によくよく自分を観つめることだ。

平成十三年十一月三十日