042: ミソもクソも一緒にするな
2011.07.10
※著書「心のしずく」より ~アーカイブ100回連載シリーズ~
※この記事は、平成八年~平成十六年にかけて執筆されたものです。
うっとおしい梅雨がつづくある日のこと、夕刻から友人宅に五人ばかり集まって一杯やっているうちに、ついつい熱が帯びて、ああでもない、こうでもないと深更まで長談議に及んでしまった。話のテーマは「信義」についてである。あまり使わない言葉ではあるが、我々の日常生活のなかでしばし直面する問題でもある。孔子の「論語」子路第十三にこんな件がある。
葉公が、その領地を訪問した孔子に向かってこう言った。「我々の村に正直一方の者がおりまして、父がよその羊をごまかしたのをその子供が証人にたって有罪にしました」
孔子は言った。「我々の村の正直な者はそれと違っています。父は子のためにかばい、子は父のためにかばいます。正義はおのずからその中に存在します」
この簡単な対話の中に、正義には二種類あることが端的になされている。現代風に言えば公的信義と私的信義である。楚の重臣であった葉公は公的信義の精神が自分の領民に及んでいることを孔子に誇るために、父親が羊を盗んだという証言をした息子の例をあげた。
当時の刑ではおそらく死刑か体の一部分を切り取られるぐらいの罰をうけたのであろう。孔子はこのような公的信義を心から憂えた。何も自分の父を断罪にするための証言をしなくてもいいのではないか、そういう時は私的信義を優先して差支えないのである。私的信義を重んじる人の集まっている国においてこそ、ほんとうの公的信義が保たれることになるのだ。
ここに、公的信義が私的信義に、絶対的に優先した恐ろしい実例がある。ナチスの時代に、ヒトラー、ユーゲントに属するドイツの子供の中には、英仏のラジオを密かに聴いている自分の親を警察に密告するものがいた。そういう子供をヒトラーはことのほか称賛した。
中国においては、旧思想の親を告発する、共産党政権下の紅衛兵もまたしかりである。信を守り、義を行う信義、この処し方を取り間違うとえらいことになる。度を越えた行き過ぎは、あとで取り返しのつかないことになる。
すべての物事を杓子定規にとらえ、仁のない正義、ミソもクソも一緒にするなかれと孔子は言いたかったにちがいない。
平成十一年八月二日