005: 挑戦しないものこそ失敗者

2009.12.25

著書「心のしずく」より

※著書「心のしずく」より ~アーカイブ100回連載シリーズ~
※この記事は、平成八年~平成十六年にかけて執筆されたものです。

 「泣こかい 跳ぼかい 泣こよか ひっ跳べ」
 鹿児島県のとある地方に、古くから伝えられてきた「わらべうた」がある。野山に遊ぶ子供たちの前に小川が横たわっている。その川を一人二人残してガキ大将を先頭に、みんなが向う岸をめがけて跳び越していく。残された仲間はその川を前にして跳ぼうか、それともよそうか迷うばかりでどうすることもできない。うずくまりただ泣きじゃくるだけだ。それを見てみんながとり残された仲間に向って合唱して励ます風景だ。子供の世界と同様に大人の世界にもよくある場面だ。
 どうしようか、こうしようか、ただいたずらに思い煩うだけで一向に動こうとしない。いくらためらい、わめき泣いていても結局何の答えもでない。とにかくいっぺん一歩でもいい、前に進んでみよ。出来る限りの精一杯の力を出してやってみよ。その結果はあとから考えればいい。このわらべうたの中には、子供たちのもつ純心と勇気と知恵がいっぱい詰まっている。挑戦する心、奮い立つ心、そして豊かな行動力を養う精神が溢れんばかりだ。
 さて世の中のことは大抵もうこれ以上できないギリギリの瀬戸際まで頑張ってこそ成功するものだ。棒高跳びの選手は毎回少しずつバーを高くし跳躍を重ね、とことんまで気力・能力の限界に挑む。ギリギリの限界まできた時、さらに自分の可能性を知り、伸ばすことができる。これでもか、これでもか、とあきらめずに繰り返す精神的な失敗は成功へと近づく第一歩だ。跳べなかったからといってそれは失敗を意味しない。失敗とは自分の目標に対して、自分の持てるものすべてを投入しないことを言う。
 出し惜しみは愚かなことに、結果的には伸びる能力の芽を自ら摘み取ることだ。挑戦しない者こそほんとうの失敗者だ。そして成功とは自分が現在おかれている環境や条件の中で、持てる力を最大限に発揮することを言うのだ。もうこれ以上頑張れない。誰にも負けられない頑張りをした極限の時点で、成功は必ず向こうから駆け足でやって来るものなのだ。
 拍手喝采は全力を尽くした者だけに贈られる。勝者であると敗者であるとを問わず、観衆はベストを尽くした者を惜しみなく愛するのだ。いかなる時も健気にして、さわやかで、ひたすらな姿に、人は自然と心を打たれるものだ。ここに人として、人のみが人にもつ深い愛着と感動がある。

平成八年四月三十日