思うままに No.240
2015.11.30
※エッセー「思うままに」より ~毎月更新~
いじめによる中学生の自殺が後を絶たない。またかとその訃報に接するたびに心痛な思いと底知れない怒りがこみ上げてくる。この怒りはあれが悪い、これが悪いと他に向けるのではなく、その矛先は自分たち大人に向けなければならない。
言うまでもなくすべての教育の大目的は何よりも生命の尊さ、生きる力を教え学ぶことにある。あろうことかその最たる現場で絶対にあってはならないことを引き起すのは、全くもって論外だ。
そこまで追いつめられた生徒の絶望感は想像をはるかに越える無念の極みであったことだろう。いつも痛感する、諸々の事件の対応は人権よりも生命、加害者よりも被害者が軽んじられているのは余りにも理不尽で腹立たしい。
前途あるこれからの若者が已むに已まれず生命を絶つのはむごすぎる。取り越し苦労であっていい、日頃より細心に注意していたらこんな痛ましいことにならなかっただろうと悔やまれてならない。
中学生と言えば半大人だ。身体は大人に近いが心はまだまだ子供だ。常日頃の生活態度をつぶさに観て、是は是、非は非の毅然とした指導が望まれる。思春期の多感な少年の心の内を見極める観察力、情報収集に加えて、大事に至らないように日頃の細やかなリスク管理とその仕組み、そして適切でタイムリーな運用を図っていくことが急務だ。
近ごろいじめる方が悪いがいじめられる方も悪いという間違った風潮が少なからずある。とんでもないことだ。理由の如何を問わず100%いじめる方が悪いのだ。
そもそもの原因はいじめられる人より、いじめる人の心の弱さが引き起す。またそれを傍観する人はもっと弱い。自分の身に降りかからなければ他人はどうでもいいと見て見ぬふりをする卑怯な風潮ほど危ういものはない。
どんなやり方でもいい、手をさしのべ救える環境づくりが必要だ。勉強も大事だが、生命の尊さや他を思いやる心を徹底して教え込んでいかなければ社会は病んでいく。
無関心は罪だ。皆の一人ひとりの関心が大きな力になる。時には余計なお世話と思われるくらいの介入があって然るべきだ。
「気にかける」、「声をかける」、「耳を傾ける」ことの実践が一人の生命を救う。子供は大人から叱られる権利がある。一方大人は子供を叱る義務がある。子供は批判するよりも何よりも手本がいる。その最たるものが親だ。
一人の父親は百人の校長に勝る。子供はまねる名人だ。大人の様を見て学び成長していく。
子供は皆等しく社会の宝物だ。希望だ。皆して関心をもって、手分けして育てていくことがいまこそ大人たちに強く求められている。