思うままに No.238
2015.09.30
※エッセー「思うままに」より ~毎月更新~
庭先でコンクリートブロックを積もうとした際に横着して右手の薬指をこっぴどく挟んでしまった。第一関節は爪もろともポンポンに膨れ上がり青死に。ズキンズキンと激しい鈍痛はこの上なし。
今まで難無くできていたことが簡単にできないことへの歯がゆさに怒っても詮ないこと。フィジカルな力は衰えていることを自覚すべしと身をもって学習をした。
しかしであるが歳を重ねれば肉体の力はそれ相応に低下するが精神の力は年齢に関係なく念いさえもてば盛んにすることも確かだ。
精神力はそもそも平穏のうちにではなく、困難やプレッシャーにあるほど鍛えられるものだ。それらのカベに突き当たった時、これは成長するいい機会を得たと考えるようになったらしめたものだ。ピンチをチャンスに換えるというのはこの精神のあり方だ。
竹は節があるからこそ高く伸び、風雨にあってもしなやかに耐えられる。生長していく途上では節はさらに高く伸びるための試練とも言うべきカベみたいなものだ。節=カベを一つひとつ乗り越え重ねていく時に丈夫に育つ。この節=カベが竹を支えると共に地下の根も負けじと奥深く根を張る。
人間も幾多のカベにぶつかりそれを乗り越えてこそたおやかに強く生きられる。また理想が高いほど当然のことながら立ちはだかるカベも高くなる。節のない竹と同様にカベのない人の成長はない。
その中でもっとも大きなカベは自分の内なるカベだ。自分の弱さに負けないようにするには泣き言、いい訳など自分をごまかそうとするさもしい根性はきれいさっぱり捨てるに限る。
どうせやってもダメだろうとか、どうせ言っても伝わらないとか、頭から<どうせ>という厄介ものを自らつくり出すのは愚の骨頂だ。<どうせ>の本質は自己否定だ。それが自己不信につながる。<どうせ>のオンパレードが自分を貶め、挙げ句の果ては無益にも他のアラ探しに走らせる。
できる方法ではなくてできない理由探しに没頭することで成長を阻害しつまらん人間にしていく。「つまる人間」と「つまらん人間」は何がどう違うのか。
前者はできるものと思って物事を突き詰めていく。どんなささいなことも一見凡事と思われることももっと上手くできないかと創意工夫する。後者はどうせこんなことだろうと諦め半分にしてバカにしてとりかかるのでつまるものもつまらんものにしてしまう。
つまる・つまらんはその対象がどうのこうのではなくて、実のところは、それに向う心の様相が決めるのだ。