思うままに No.227
2014.10.31
※エッセー「思うままに」より ~毎月更新~
「あなたが無駄に過ごした今日は昨日死んでいった者があれほど生きたいと乞い願った明日なのだ」と余命いくばくもないある人の切なる言葉がずっしりと重い。
叶うならばもっともっと長く生きたい。やり残したことへの悔いと自省から出る本音からまだあれもこれもしたいと願う思いが重なり胸を打つ。時には限りがあるという現実をあらためて痛感する。一方我々はあまりある時をもつ有り難い身である。「いつまでもあると思うな親と金」と言うがそこに「時」という文言を付け加えなければならない。
それほど時は大事なものだ。
生きている間、活用すべき時は時間との闘いというよりむしろ時間を味方に引き寄せて時を超えるようにしたい。時間は皆平等にあるが、使い方次第でこれほどの価値の差異が生ずるものはない。正しく時は金なりであるが、無為無駄にすれば鉛になる。
若いときはさほど時間のことは考えなかったが、年を重ねるにつれ、あと何年かと残された時間を逆算して数えるようになる。一分一秒たりとも浪費をしまいとますます時間にはケチになる。
何がもったいないかと言えば時間をおろそかにすることほどもったいないことはない。これだけは取り戻すことができない故に凄く損をした気分になる。ないものねだりでもっと時間が欲しいと思うが所詮叶うことではない。そう思う前に限られた時間の質をいかに高めるか有効に使うことができるかに意を注がねばならない。
時間を上手く生かすには絶対条件がある。それは明確な目的目標をもってはじめてその価値を見出し創造する。さもなければ時間の意味も価値もない。
過日、林業に携わる人からこんな話を耳にした。
「林業は自分のやった仕事の結果を生きているうちには見ることができない。日々ひたすら百年先立派に育つ木に思いを馳せながら子孫のために苗木を植えるのだ。」と。
長い長いとてつもない時間をかけて自分の生きているうちには見ることのできないことを地道にやり続ける遠大な仕事だ。経営も同様、百年先を存続させるためには木の年輪のように慌てず焦らず地道に信用の年輪を重ね広げていくことだ。常に上を目指すが、身の丈に適う年輪を刻むことだ。その年輪の間隔はこまかく狭いほど丈夫な木に生長していく。
時は待ったなしで忠実にその針を進める、寸分の狂いもなく。狂いを生じさせるのはそれを使う人の方だ。老いにも若きにも等しく時はまたたくまに過ぎる。