思うままに No.215

2013.10.31

エッセー「思うままに」

※エッセー「思うままに」より ~毎月更新~

 大型台風襲来の10月16日総勢16名にて赤い箱とアクアマジックの伊勢神宮奉納のため参拝してきた。当日は100%嵐の中の挙行になるであろうと準備もし覚悟を決めていた。ところが流石お伊勢さんの力か余波で風は残っていたものの台風一過すっかり上天気に恵まれ無事滞りなく行事を終えることができた。皆さんのよき心懸けもあっただろうが、これ正しく神がかりということか。20年に一度の式年遷宮で賑わうすべての参拝者もそう思ったことであろう。

 さて人は生物界の中では唯一恥じることを知る動物だ。武士道、騎士道においても恥について語られるところだが、恥とは一言でいえば名誉や誇り、道徳や礼儀を失くすことであり、人としての尊厳を捨てることだ。

 生き恥をさらすとは人が生きていく上でよって立つ自分の存在価値を自らの手で葬り去る行為を表す。恥には大小の程度がある。それが自分だけにとどまるならばまだしも自業自得で笑って済まされる。しかしことが周りの他人様まで危害を及ぼし迷惑をかけるということになると大ごとだ。

 とりわけ恥は恥でも人としてあるまじきこと、いかなることがあろうとも決してやってはいけないことに至っては断じて許されるものではない。仮に、その言動が規則や法律に触れなくても、こと善悪や道からはずれればなおさらのことだ。人が人としてその行為が正しいことなのかどうか人間そのものを問われる。

「殺す相手は誰でもよかった。たまたまそこに人がいたから」
「事故を起こして恐くなりひいた人をその場に置きざりにして逃げ去る」
「ものを壊しておいて詐取しておいて返せば文句はないだろう」等々

 平然と言ってのける犯罪者どもの恥知らずの物言いにはいつもながら腸わたが煮えくり返る。こういう奴は人間の仮面を装う畜生にも劣る冷酷動物たちだ、もはや人間ではない。

 人は一生の間には数え切れないくらいの冷や汗や恥をかいていくものだが、その都度真しに自省を怠らず正していけば一時の恥は永時にあらずで後々のためにはいい勉強になって自分を高めていける。物も金も大事なものには違いないが人としての誇りや道を何よりも重きにおきたいものだ。

 <武士は食わねど高楊枝>ではないが、やせ我慢と言われてもいい、名誉を重んじ、たとえ食事をしなくても食べたあとのごとくゆうゆうと楊枝を使うように、貧しい境遇にあっても心だけは高くありたい。