思うままに No.199
2012.06.29
※エッセー「思うままに」より ~毎月更新~
「地獄の沙汰も金しだい」と言われるが、人生において金ほど有用なものはないが、一方これほど恐いものもない。たまにふと思うことがある。この金は製造されて世に出、幾千万人の人たちの間をどの様に渡り歩いてきたのであろうか。喜怒哀楽、美醜善悪など様々な履歴を経てきたことであろう。金がものを言えるものならば尋ねてみたくなる。
さて金はあくまでも手段としてのもの、金自体が目的になって、金に人が使われるようになると害悪が生じる。守銭奴のように金の奴隷におちいると人生を汚してしまう。
金を払う段になるとトイレに行ったりして雲隠れする。人が勘定している最中にレジの横から「僕が払おうか」と、ほんとうは払うつもりはないのだが。
知らないうちに先んじて「もう勘定は済んだ」と。
「すまん、すまん持ち合わせがないので次回は僕が払うからね」と。
払う側にとっては「ごちそうさま」と一言、言われたほうが気分がいいのだが。等々いろいろと人それぞれ人間模様が面白い。また金のことになると異常に細かい人も少なくない。このことはいちがいに悪いことと決めつけられないが、度が過ぎてやられると窮屈で息がつまる。
反対に大ざっぱ過ぎるとこれまた困ってしまう。しかしどちらかというとおう揚なほうが自分の性に合う。
割り勘もあとぐされがなくてさっぱりとしていいが、反面何となく味けない感じもする。
もっとも時と場合にもよるが。「金の貸し借りは友を失う」のように、よかれと友人どうしの金の貸し借りを戒めるものだが後のことを考え気を付けることだ。そういう時には貸すより自分の用立てできる範囲内でくれてやったほうがいい。
おおよそ金持ちはそれ故に金離れがいいように思えるが、実のところはそうではないことが多い。むしろ貧乏人のほうが気前がいいものだ。だからいつまで経っても金は貯まらないのだが。
また日常の慶弔の際にはお金を包むとき、いくらにしようかと迷うことがある。そういう時は最大限いまの自分の出し得る額にしたほうが後になって悔やまない。金は人格だ。得方、使い方には恐いほど如実に品性が現れる。