かねてよりの希望であったきずなASSISTボランティア研修に3月20日〜29日と参加させていただいた。
今回はインド。貧富の差がかなり激しいと言う。「北インドと南インドは違う国と考えていい」との情報もあったが、そもそも日本の文化との違いが大きいので南北問わずカルチャーショックはことのほかあるだろう、と不安と期待が入り混じった気持ちで事前準備をした。
■ シンガポール経由でチェンナイへ
日本を発ち、シンガポール経由で旧マドラス、チェンナイへ。空港を出た瞬間、ムワッとした熱気、クラクションの音。車、人でごった返していた。クラクションはどこへ行こうが変わらない。とにかく鳴らす。「抜きますよ」「ここにいますよ」と、意思表示はすべてクラクション。常に鳴らすので慣れるのに時間はかからなかった。空港から2時間ほど移動して、ARP研修センターに到着。
1980年に誕生したARP(Association for Rural Poor)は、タミルナドゥ州に研修センターを構えているNGO。ダリット解放運動を軸に子供たちの教育なども行っている。ダリットとはカースト外(厳密には低カースト)の人々で「抑圧された人々」という意味がある。1950年に身分差別は法的に撤廃になっているが、宗教の影響や長く続いてきたことも手伝って根強く残っている。
子供たちの裁縫学校や身体障害児の施設があるARP研修センターに到着したのは、深夜1時を回っていたと思うが、スタッフや子供たちが温かく迎えてくれた。その日は宿泊施設で就寝。天井にあるファンのおかげで快適に眠ることができた。
■ 素晴らしい笑顔と優しさ
翌朝、子供たちに挨拶をすると恥ずかしそうに返してくれた。みんなキラキラした、また力強い目をしていた。カーストによる抑圧のため職業も制限される中、手に職を、といった位置づけで裁縫を学んでいる女の子たちは未来への希望に満ちあふれているように見えた。それを手助けするARPのスタッフもみな優しい。
ダリットの人々が社会と戦っているというのを子供たちは把握しているのか。そんなことは子供たちには関係ない。毎日を必至に、楽しく生きている。
玄関(施設の全て、門にも)にフラワーサインと呼ばれるものがあった。綺麗な模様の花の絵がチョークで描かれていた。歓迎の意味だと聞いた。後日詳しく聞くと、起源は虫除けだそうだ。昔は米粉でフラワーサインを描いており、蟻がそれを食べるため玄関に群がる。その蟻が害虫も食べてくれていた、とのこと。生活の知恵と美術の合体だ。
■ 美味しい食事に支えられ
朝の瞑想に少し参加し、朝ご飯をいただいた。パンだったので少し残念。カレーだと思っていた。その後、毎日毎食カレーを食べることになるのだが。
私にはインドの食事が合っていたようで、インドで少し痩せるかと思っていたが、あまり痩せなかった。日本での食事量より摂っていたかもしれない。スタッフの気づかいで食事があまり辛くはなかったこともある。南部での主食は米。ナンはない。基本的に食事は手で、慣れてしまえばなんてことはない。スプーンより早いかもしれない。
食事を終えると、ARPの代表であるフェリックスさんのお話を頂戴するとともに、子供たちによるダンスの披露もあった。伝統的なダンスを残していくこともやっているそうだ。全員華麗に踊っていた。
■ 民衆劇の役割と歴史背景
その夜、我々の歓迎会が開かれた。そこでは民衆劇を披露することとなった。民衆劇とは、民衆が主体、主役となって劇を作り、その課程を通して自分たちの生活現状・社会状況を分析し、状況を変革していく方策を互いに学び探り合うことを目的としている。一つの参加型学習方法のようで、昔から啓蒙活動としてエンターテインメントとして親しまれてきたようだ。
歌、踊り、笑い、涙、すべての要素を取り入れつつ、問題提起を図り観客に知って考えてもらうという難しいものだ。2つのグループに分かれそれぞれが別の問題について発表した。
我々のグループは「多国籍企業による土地の買収、乗っ取りに伴う農民の難民化」について発表することとなった。地元の劇団員の人との共同作業となり、教えてもらいながらのリハーサルとなった。私の役どころは、農村を買い叩く多国籍企業の社員。日本語、英語、タミル語の同時通訳でのリハーサルとなったが、本番は半分以上がアドリブ。それでも非常にいい発表となり、大きな拍手をいただいた。
民衆劇はダリット開放運動において、人々に問題を理解してもらうのに非常に重要なものだということがわかった。
■ ホームステイでの体験と笑顔
翌日はホームステイへ。まるっきりの単独となる。あいさつ程度の現地語を教わったが、片言の英語で何とかなった。私のステイ先はペリヤベドゥと呼ばれる村のキリスト教の牧師のお宅だった。ローカーストから抜け出すためにキリスト教に、という住民は多いそうだ。
ステイ先の家族はもちろん、村の人々は温かく、どこへ行っても歓迎してくれる。どの家にもプラスチック製の椅子がいくつもあり、とにかく座らされる。インドにいる間はどこに行ってもとにかく椅子が出てきた。
その村の住民は、近くにある塩湖での漁を生業としている。また塩田も大事な収入源のようだ。かつては塩をめぐり戦争が起きたほどだ、と言う。
彼らの移動手段は基本的にはバイクだ。8割方が日本車だった。二人乗りは当たり前で、ヘルメットはつけなくてよい。というよりも、免許を持っている人間に会わなかった。彼らは「基本的にはNO POLICEだ」と笑っていた。
食事はみなが揃って食べることが基本だが、順番にとる。客人がいる場合はまず客人から。次いで家長や男性陣。次に子供たち。残ったものを母が食べるといった風だ。食べている間、みんなでじっと注目しているため食べ辛かったが、おいしかった。根強く残る男尊女卑なのか、なぜ女性が後に食べるのだろう。みんなで食べたほうがおいしいのに。
風呂、トイレはなく、水浴び場のようなものがあったが、トイレは「そのへんで」。物陰を見つけトイレとする。開放的だ。
近隣の村にも連れて行ってもらった。貧しいながらもみな笑顔で暮らしていたのが印象的だった。
■ 健康は権利である
ステイ先家族に別れを告げ、その晩一行はディナバンドゥ研修センターへ。ディナバンドゥとは「貧しい者の友の村」という意味だ。かつて病院だったその施設は現在、地域共同体保健センターと農村生活改良センターがある。また、全寮制の小・中学校等もある。基本活動はやはりダリット解放運動となる。1984年に発足、ANITRA(NGO)とという団体へ。ここではいろいろな人の話を聞いた。
クラスターバンク(信用金庫)の設立も手伝っている。高利貸しに頼っていた住民が多く、それを回避するために住民主導で行っている。相互扶助の観点で年利も安く助け合っていく。伝統的な産婆さんのケアも活動の一環だ。
彼らの意見として「健康は政治の結果表れる。健康は基本的な権利であり、健康につながっているものは衣食住や教育である」とのこと。まったくそのとおりである。
■ 研修で学んだ「想い」
インドの貧しい人々は、日々戦い、学び、努力し、それでも明るく前を上を向いて歩み生きている。毎日を「こなす」ように生きるようになってきている自分を見つめ直すいい機会となった。彼らのためにできること、などおこがましいことを言うつもりはないが、同じ人間として遠い所から何か協力できることはないか、と日々考えながら生きていきたいと思う。
大地はつながっていないが、空はつながっている。同じ空を見ながら頑張っている、とインドの地に思いを馳せ、この研修で得たことを糧に仕事やプライベートにまっすぐ打ち込んでいきたい。
●ARP(Association for Rural Poor)とは
20くらいの農村を対象に活動している「農村貧困者のための協会」。「dalit」という、カーストから逃れてキリスト教になった人たちが中心で、各農村の牧師さんたちが協力して活動を行っている。ARPの本部には、子どもの教育施設(小さな学校のような)、裁縫教室があります。 |
● ANITRAとは
住民参加型のNGOで「平等」「機会の公正」を軸に住民の組織化、若者の教育等を行っている。 |
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